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公開日:2023年8月23日 更新日:2023年8月23日

大震災千住町写真帖 -概況-

関東大震災の被害や復興の様子を後世に残すべく、震災から約半年後に千住町役場が発行した『大震災千住町写真帖』。
当時の千住町長(南足立郡千住町の町長)の言葉や、被災直後の千住町の写真が掲載されています。

 

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大震災千住町写真帖

千住町における震災救護事務の概況

 

大震災千住町写真帖(51)

 

大正12年9月1日、稀有の大地震が発災し、家屋の倒壊が非常に多く、東京市は大火災が起こり建造物はことごとく焦土となった。かろうじて本町に避難してきた者はおよそ十数万人に達し、千住町においてはすぐに職員を総動員し、不動院の境内に天幕を張り仮の事務所を設け、同時に緊急町会を招集し、救護方法を決議して救護を開始。まずは炊き出しを行い避難者の救助に着手した。4カ月にもわたった救護の内容をここに列記する。

9月2日~6日の間、炊き出しを実施
救助者の延べ人員は2万1,751人

9月6日の午後より救護事務所を千住町一丁目の千寿尋常高等小学校に移し、救助者が激増して炊き出しがとても間に合わず、救助が不可能になってしまったため在郷軍人分会と青年団の応援を得て、19カ所に給与所を設け、同日夕食から米、副食物の供与を行った。10月22日までこれを継続し、翌23日より千寿尋常高等小学校に引き上げ配給所を1カ所とし、10月31日をもって救助を終了とした。

これによる救助者は延べ253万4,329人。
なお、11月1日より避難者にして生計困難者に対し、12月末日まで白米を配給した。

大震災千住町写真帖(54)
震災時に購入・借り入れをした物資

大震災千住町写真帖(53)
震災時に配給された物資

大震災千住町写真帖(52)
震災時に配給された物資

 

大震災千住町写真帖(56)

救護事務執行中の吏員等に寄贈した者
各種団体より寄贈された物品

大震災千住町写真帖(55)

徴発(強制的に取り立てた)物資
本町罹災者救助費として寄付した者


大震災千住町写真帖(57)

傷病者救療の概況

1、南足立郡医師会の活動
本部医師会は震災直後、救援団を組織し第一着として千住神社境内に収容所を設置し避難者の救護および罹災した傷病者を収容・治療しなお千住5丁目の空き地および千住2丁目染谷金三郎方に診療所を設け、極力傷病者の治療にあたった。
ここで行った44日間での救護人数は、外科3,489人、内科1,574人であった。

2、徳島県救護班の活動
徳島県においては震災傷病者救護の目的で救護班を組織し、9月12日に来町した。千寿尋常高等小学校に救護所を開設し、同月17日まで傷病者の治療に専念し、そのおかげで瀕死の状態から蘇生した者が多数いた。
9月12日~17日の間の治療患者数は延べ304人、巡回診療患者は284人

大震災千住町写真帖(58)

(イ)組織の内容
医師6名、薬剤師2名、看護婦22名、事務員4名、人夫6名
(ロ)9月5日に徳島県を出発、12日に千住町到着、17日に千住町を出発、20日に徳島県に帰還
(ハ)携帯した衛生材料64種、経費総額5,091円73銭
引き上げの際に残存した衛生材料は、すべて千住町に寄附した。

3 警視庁救護班の活動
徳島県救護班の引き上げ後、その代わりとして専ら傷病者の診療に従事し、10月末日をもって救護所を閉鎖した。来町以来、激務にあたらなかったといえども、救護にあたった日数は最も長く、多数の傷病者の診療にあたった。

そのほかの団体の活動
帝国在郷軍人会千住町分会ならびに千住町青年団は総合警備隊を組織し、救護期間、長きに関わらず常に協力し警備衛生に注力し、千住町の救護事務に特段の努力で応援した。複雑な業務である調査・配給も円滑に行われ、避難者に満足を与えることができたのは当団体の功績にほかならず、11月28日町会の決議により、手当金を交付した。

臨時震災事務手当金1,200円 千住町分会
同700円 千住町青年団

以上の状況にして、左記が救護人員および配給物資など算出できたものである。
救助人員 延べ257万2,300人
米受け入れ総数
玄米7,794俵

大震災千住町写真帖(59)

白米3,521俵2斗6升
配給した救助米
玄米7,490俵
白米3,521俵2斗6升
合計1万1,011俵2斗6升

うち、販売したもの 白米160俵 玄米4俵
差し引いて残った米 304俵
罹災救助基金法に基づき支出を要した金額は概算で3万3,849円18銭であった。

軍医師会の救療状況
大正12年9月1日の大震災により本郡医師会は人命救助が至急必要であると判断し、直ちに救護班3班を組織して救護診療を開始した。千住町に避難してきた罹災者の被害は惨状を極めており、本所区、浅草区、深川区方面のものが多かった。傷病者の数が非常に多く、各班員はほとんど寝食する間もない状況であった。その中でも衛生品の欠乏に際しては、本会は茨城県水戸市方面に職員を派遣し、消毒材料などの薬品を購入してきて救護の成果を上げたことの功は大きかった。

1、救護班の組織
会員全員に当番を割り当て、交代で診療に従事。なお、避難者が集団でいる場所を巡回して診療を行った。

大震災千住町写真帖(60)

2、救護班設置場所
千住神社境内、千住五丁目空地、千住二丁目染谷金三郎方

3、救護日数
大正12年9月1日~10月14日44日間

4、救護患者数
外科 3,689人
内科 1,874人
合計 5,563人

5、経費負担
南足立郡医師会

6、出動人員
医師37人、看護婦2人

消防組の活動
大正12年9月1日、大震災が起こると同時に、千住町内の3カ所から出火があり、そのうちの2カ所は機敏な活動により防止したが、日本製靴株式会社工場の倒壊と同時に工業用のガスにより発火し、ますます拡大するところを全力で消火に当たったものの、燃えやすい物質が多かった工場は全焼してしまったが、消防隊の必死の活動により倉庫一棟と物置一棟は類焼を免れ、同日午後3時に鎮火したにもかかわらず薬品等の再燃により同日4時30分および10時50分の2回にわたり出動し、極力消化

大震災千住町写真帖(61)

に努め、翌午前2時完全に消火した。余震が絶え間なく続き人々の心が恐れおののいている中でのこのような迅速な行動は、献身的な精神がなければできなかったことであり、千住町の火災が落ち着いたのちも引き続き日夜警戒の任に当たり、救助事務が終わるまで小火(ぼや)も出さなかったことは、ひとえにこの消防隊の活動によるものである。

布団の調製
避難者に配給すべき布団の材料を東京府より送付されたことで、これを調製するために専門家に命じようとしたが、多くの日数と経費を要し、配給上遅延の可能性があることから、郡視学は本町小学校長と協議した結果、生徒に対し義侠的観念と同情心の向上を図り経費の節約および、のちのち寒さが身に染みてきた避難者の寒苦を思い、少しでも早く配給しようという趣旨で尋常6年、高等科、補習科の女生徒および有志の婦人に託し、教員補助のもとに一日専門家を招聘して講習をしたうえで、調製に着手し、裁断、縫製、綿の入れ方の3部に分けて約一週間で調製を完了させた。

調製した布団の枚数 1,065組
調製に従事した人員
高等科生徒 166人
尋常科6年生徒 200人
篤志婦人 5人
教員 35人


大震災千住町写真帖(64)
千住町配給所第一部従事者
千住町配給所第二部従事者

大震災千住町写真帖(62)
千住町配給本部員

大震災千住町写真帖(63)
千住町配給本部員


大震災千住町写真帖(67)
千住町第六部配給所従事者
千住町第七部配給所従事者

大震災千住町写真帖(66)
千住町第四部配給所従事者
千住町第五部配給所従事者

大震災千住町写真帖(65)
千住町第三部配給所従事者


大震災千住町写真帖(70)
千住町第十部配給所従事者

大震災千住町写真帖(69)
千住町第九部配給所従事者

大震災千住町写真帖(68)
千住町第八部配給所従事者


大震災千住町写真帖(73)
千住町第十四部配給所従事者
千住町第十五部配給所従事者

大震災千住町写真帖(72)
千住町第十三部配給所従事者

大震災千住町写真帖(71)
千住町第十一部配給所従事者
千住町第十二部配給所従事者


大震災千住町写真帖(76)
震災救護事務関係者感謝慰労会の景況

大震災千住町写真帖(75)
千住町第十八部配給所従事者
千住町第十九部配給所従事者

大震災千住町写真帖(74)
千住町第十六部配給所従事者
千住町第十七部配給所従事者


大震災千住町写真帖(77)
奥付

 

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