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公開日:2023年8月23日 更新日:2023年8月23日

大震災千住町写真帖

関東大震災の被害や復興の様子を後世に残すべく、震災から約半年後に千住町役場が発行した『大震災千住町写真帖』。
当時の千住町長(南足立郡千住町の町長)の言葉や、被災直後の足立区の写真が掲載されています。

 

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大震災千住町写真帖

「大震災千住町写真帖」表紙画像

- 詔書 -

一般に「詔書九月十二日・帝都復興ニ関スル件」とし国立公文書館が原本を所蔵

大震災千住町写真帖(3)

大震災千住町写真帖(2)

私は、神聖な歴代天皇の模範を受け継ぎ、輝かしい国家の歴史の実績に照らし合わせ、亡父である明治天皇の中興させた国家の大計を継承して、決して誤らないことを切に望み、日夜競うように国を治めることを考え、幸いにして歴代天皇たち神の助けと国民の協力を頼りにして、空前の世界大戦に直面してもなお十分に小康を保つことができた。

全く予想だにしなかったことである。九月一日の地震は突然に起こり、その振動は極めて激しく、どれほど多くの家屋が倒壊し、人々がむごたらしく亡くなったのかわからない。それだけでなく、火災がいたるところで起こって、その炎は天高く立ち上り、東京や横浜、その他の市や村々は一夜にして焦土と化した。この間、交通機関は途切れ、そのため根拠のない噂が盛んに流れて人々は恐怖におののき、ますますその被害を大きくさせた。これは安政の大地震と比べても非常にいたましいことと想像させる。私は、深く自らを戒めて慎しみ続けているが、思うに自然の災害は人の力で予防することが難しく、ただ速やかに人事を尽くして人々の心を安心させるという手段があるのみである。おおよそ、非常の秋に際しては非常の決断力をもたなくてはならない。もしそれが、平時の規則にとらわれて活用することに気づかず、状況に応じた対処をせずに前後を誤り、あるいは個人もしくは一会社の利益保証のために大勢の被災者の安全を脅かすようなことがあれば、人心は動揺してとどまることを知らない。私は、これを深く心配し、すでに我が国に仕える役人に命じて状況に応じた救済の道を講じさせ、まず差し迫った事態から助けていき、恵撫慈養(けいぶじよう。詔書の原文は「滋養」)いたわりの成果をだしていきたいと考えている。そもそも東京は帝国の首都であり、政治経済の中心となり、国民文化の源泉となって民衆に尊ばれている。思いもがけない災害に遭って、今やそのもともとの姿をとどめずといえども、依然として我が国の都であるという地位は失わず、そのため善後策は、ただもともとの姿を回復することにとどまらず、さらに将来の発展をはかり、街としての様相を新たにしなくてはならない。思うに、私の良き国民たちは、義勇でもって国に尽くすので、私と共に、それを頼みとすることを強く望むのがよい。これを考え、私は大臣に命じて速やかに特別な機関を設定して、帝都復興のことを審議調査させ、その成果としてでき上がる案については、一方でこれを枢密院に諮り、一方で議会にもかけて、計画と実行に不完全なところのないようにすることとする。

我が国に仕える役人たちは、私の思いを自らの思いとし、迅速に被災者の救護にあたり、根拠のない噂を厳しく封じて人民の心を安定させ、国民はまた政府の施設を助けてまごころの奉仕を尽くし、これをもって我が国復興の基盤を固めるべきである。私は、これまでの歴史上で類をみないこの天災にあたり、人民を憐れみめぐむ心はますます募り、寝食も安らかにできないほどである。そうであるから、あなたがた臣民には、そうした私の思いを体現してほしい。

御名御璽(大正天皇「嘉仁」の署名と「天皇御璽」)
摂政名(当時、摂政宮だった昭和天皇「裕仁」の署名)

大正十二(一九二三)年九月十二日

(足立区郷土博物館 学芸員翻訳)

- 序 -

 

大震災千住町写真帖(4)

大正12年9月1日、突然、東京・横浜および関東一帯にわたって発生した大震災は、これまでの歴史上ないほどの大惨事であり、あいついで大火災が発生し、近年研鑽を重ねてきた文化施設のすべてと、多くの交通機関をともに破壊し、一瞬のうちに東京市の大部分を破壊し尽くし、その様子は凄まじい惨状を極めており、悲しむべき十数万の死傷者を出し、どんな人も、言葉にできないほどのことがあったのである。

わが千住町もまた震災による被害を受け、あちこちで家屋が倒壊、あるいは傾いて、人や動物を傷つけ、火災も発生し損害が大きく、まさに帝都東京の惨状がそのまま現れるようであった。しかし、町民たちはみんな冷静に大災害に対応して努力し、被害を軽くすることが出来た。これこそ、わが千住町が、恵まれた場所に位置することに加え、みんなが自治の精神を知り尽くした「愛町」の観念の発露と言うべきである。まさしく、これらの大きな禍は、わが千住町をして、将来、災い転じて福となすの幸いを招いて、振興の機運を速め、前途の発展を促進させるというおもむきがある。

さらにくわえて、震災に直面してからは、町の各公共団体は、期せずして援助や救護にすすんで立ち上がり、社会公徳の美を発揮して、寝食を忘れて、親切で行き届いた配給業務、身命をかけての流言飛語の防止や警備を行って、わが千住町の安全を保ったのである。ほんとうに当時の美挙、善行は枚挙にいとまなく、永遠に住民団体の模範として子孫に伝えられると信じている。

かしこくも天皇陛下(大正天皇)にはご心配をいただいて、その御財から金1000万円を御下賜いただき、死傷者や被災者の救済をしていただき、大詔をお出しになり帝都東京の復興、国民精神の高まりを期待されました。陛下のお考えの深さと優しきお心の様子は、だれもが感泣するところである。なお、皇后陛下、摂政宮殿下(昭和天皇)、秩父宮殿下も、かしこくも巡回していただき、震災被害の惨状をご覧いただいた。いつも我が皇室の慈しみのお人柄に、ひたすら恐縮して感激するばかりである。

 大震災千住町写真帖(5)

 

この時にあたり、上下で一致して、力と心を合わせて、もって天皇陛下のお言葉を奉じて、質実剛健・勤勉節制して、軽佻詭激(けいちょうきげき。深く考えないで危うい考えを主張すること)の風をいましめ、国家が発展するという福利を増進して、近隣と親しんで和平と協調でさらに振興をしていくことを期している。

いまや震災から半年が過ぎた。振興は一日一日、一月一月ごとに進んで、震災救護の事業は終了し、救護事業の点検も終わり、すべての業務を明確にして、とても優良であるという成績を得た。これも時局をしっかりとらえた関係者各位の心からの援助の賜物であることと信じて疑わない。

以上のことから、わが千住町の連合団体の計画によって『大震災千住町寫眞帖』が編さんされることを聞き、まことに前例のない記念という機会を失わず、後世、本町振興の政策のために十分役に立つと推賞するものである。こうして緒言を述べて序とした。

 

 大震災千住町写真帖(7)

震災当時に活動した千住町名誉職諸氏

 大震災千住町写真帖(6)

(右)東京府南足立郡長 島田俊夫 氏
(左)南足立郡千住町長 加藤幸三郎 氏


 大震災千住町写真帖(9)

震災直後、戒厳下令により大正12年9月7日千住町に派遣された警備隊到着の様子
(千住町中組 内田與兵衛氏方に宿営した川田大隊長以下歩兵第五十八連隊第二大隊本部員)

 大震災千住町写真帖(8)

震災当時に救護事務に従事した南足立郡役所員諸氏


 大震災千住町写真帖(11)

震災直後、千住尋常高等小学校(当時の初等・中等教育機関)の講堂内に設置された警視庁診療班の諸氏

 大震災千住町写真帖(10)

千住町の警備のため分遣された北千住憲兵分遣所の光景(千住町一丁目郡役所東隣)


 大震災千住町写真帖(13)

震災直後、救急診療に従事した東京府南足立郡医師会員

 大震災千住町写真帖(12)

警視庁診療班 施療の状況


 大震災千住町写真帖(15)

千寿尋常高等小学校における千住町配給本部 配給当日の人員整理状況

 大震災千住町写真帖(14)

千寿尋常高等小学校(現在の東京藝術大学 千住キャンパス[千住1-25-1]の場所にあった)における千住町配給本部


 大震災千住町写真帖(17)

千住町配給本部の配給状況(第二)

 大震災千住町写真帖(16)

千住町配給本部の配給状況(第一)


 大震災千住町写真帖(19)

千住町配給本部の配給状況(第四)

 大震災千住町写真帖(18)

千住町配給本部の配給状況(第三)


大震災千住町写真帖(21)

千住町中組(河原)市場海老原氏方第二部配給所および配給担当者諸氏

 大震災千住町写真帖(20)

千住町橋戸稲荷神社境内第一部配給所および配給担当者諸氏


大震災千住町写真帖(23)

千住町中組 源長寺境内における第四部配給所および配給担当者諸氏

大震災千住町写真帖(22)

千住町中組(かもん宿)中村氏方第三部配給所および配給担当者諸氏


大震災千住町写真帖(25)

千住町三丁目(牛田)鐘ヶ淵製紙工場における第六部配給所および配給担当者諸氏

大震災千住町写真帖(24)

千住町三丁目(牛田)西光院における第五部配給所および配給担当者諸氏


大震災千住町写真帖(27)

千住町二丁目 勝専寺境内における第八部配給所および配給担当者諸氏

大震災千住町写真帖(26)

千住町一丁目 島田米店方第七部配給所および配給担当者諸氏


大震災千住町写真帖(29)

千住町四丁目 長円寺境内における第十部配給所および配給担当者諸氏

大震災千住町写真帖(28)

千住町三丁目 千住演芸館における第九部配給所および配給担当者諸氏


大震災千住町写真帖(31)

千住町五丁目 安養院前における第十二部配給所および配給担当者諸氏

大震災千住町写真帖(30)

千住町三丁目 佐知医院前における第十一部配給所および配給担当者諸氏


大震災千住町写真帖(33)

千住町四丁目(元宿)疋田工場倉庫前における第十四部配給所および配給担当者諸氏

大震災千住町写真帖(32)

千住町五丁目 氷川神社前における第十三部配給所および配給担当者諸氏


大震災千住町写真帖(35)

千住町一丁目(大正道路)岡田米店側における第十六部配給所および配給担当者諸氏

大震災千住町写真帖(34)

千住町四丁目(元宿)疋田工場倉庫前における第十五部配給所および配給担当者諸氏


大震災千住町写真帖(37)

千住町二丁目 千住神社境内における第十八部配給所および配給担当者諸氏

大震災千住町写真帖(36)

千住町二丁目 花井氏宅前における第十七部配給所および配給担当者諸氏


大震災千住町写真帖(39)

大正13年2月27日 南足立郡役所会議室において千住町在郷軍人罹災者に対する弔慰金および救助金伝達式の光景

大震災千住町写真帖(38)

千住町二丁目(放水路以北)岡田氏宅前における第十九部配給所および配給担当者諸氏


大震災千住町写真帖(41)

(上)震災直後における千住警察署の配給状況
(下)大正12年9月6日 千住町役場事務所(一丁目)を尋常高等小学校内に移転した際の吏員、
配給本部員の集団

大震災千住町写真帖(40)

大正12年10月28日 千住町第二小学校講堂において開催された、震災救護事業および警備に尽力した連合警備隊員(在郷軍人会員、青年団員、消防組員)慰労会の状況


大震災千住町写真帖(43)

(上)千住町二丁目勝専寺大門十字路付近の倒壊家屋が道路を塞ぎ、交通不能となっている状況
(下)千住町五丁目の倒壊家屋の状況、この辺りは地盤の関係で家屋の被害が顕著であった

大震災千住町写真帖(42)

(写真下)千住町中組第三部配給所の光景
大正12年9月4日 市中(東京市中。現在の東京23区に相当する)より避難する民衆が本町を通過して北へと向かい、混雑している(小橋の十字街)


大震災千住町写真帖(45)

(上・下)千住町遊郭大門入口より北を望む被害の状況。普段は不夜城であったが、惨禍にあい悲痛な状況になっている。この遊郭は大正10年3月に移転し新築したが、被害が大きく損害も多大であった。だが、直ちに復興し、今は惨禍の跡は残っていない。(大正13年3月)

大震災千住町写真帖(44)

(上)千住町大正道路(現在の大正通り[千住大川町12~千住龍田町1])付近の倒壊家屋で、被害が甚大であった光景
(下)千住町遊郭付近の倒壊家屋が道路を塞ぎ通行不能となっていたが、付近の有志が集まり片づけをしている状況


大震災千住町写真帖(47)

(上)荒川放水路に架かる常磐線および東武鉄道の鉄橋被害は東武線に多く、十数日間は列車運行が不能となり、北千住側の鉄橋際から徒歩で渡ることはかなり困難であると見える。
(下)小菅刑務所(現在の東京拘置所)綾瀬村所在の被害状況。頑丈な壁が崩壊して監舎が外部に見えていたため、政府はここに軍隊を派遣し、鉄条網(鉄線で作られた網)を張って警戒した。

大震災千住町写真帖(46)

(下)綾瀬橋際(現在の千住曙町付近)の堤防が崩れた様子。堅固な堤防も自然の暴虐にはかなわず、人の力が自然に抗うことはできないと思わせられる。
(上)東武鉄道 綾瀬川鉄橋以西(現在の千住曙町付近)の被害状況で、線路が陥没しているところをみると、ここ一帯に渡り地盤が沈下した可能性が考えられる。


大震災千住町写真帖(49)

(上)南千住町 下宿岩佐病院付近における避難者生活の状況
(下)南千住町停車場入り口付近より大橋方面を望む市街の道路上に避難してきた罹災者の状況。住むにも家が無く、着るにも服が無く、食べるにも食料が無く悲惨を極める。道路上に連なる仮小屋は隣接浅草方面からの避難民。

大震災千住町写真帖(48)

(上)荒川放水路以南 千住町隣接綾瀬村 彌五郎新田清亮寺付近の惨状。遠くに見える鉄橋は、常磐線の鉄橋である。
(下)南千住隅田川駅踏切(陸羽[りくう]街道)から見た東京市の遠望で、ここより南、芝橋に至るまでの間は、震災による火災のためにわずか三日間で灰となった。さすがの東洋一の帝都も数十時間で廃墟となり、五十億の国富(国の財産)を失い、十数万の死者を出し、未曽有の惨状を呈した。


 

大震災千住町写真帖(50)

大正13年3月26・27日、千寿尋常高等小学校において開催された東京府商工奨励館ならびに千住町商工課の主催による、震災後商工業の振興を図る商工能率増進講演会の状況


 

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