ホーム > 区政情報 > 広報・報道 > シティプロモーション > ワケあり区、足立区。 > 足立区が住みやすいワケ > 穴場な街NO.1 千住
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公開日:2024年5月22日 更新日:2025年9月18日
SUUMO「住みたい街ランキング 首都圏版」の「穴場だと思う街ランキング」の1位に2015年(平成27年)から11年連続(※1)で選ばれている「北千住」(※2)。交通の便が良いのに荒川河川敷や銭湯などほっと落ち着ける場所が点在、物価も比較的安くて暮らしやすいのが人気の千住ってどんな街?
※2018年(平成30年)調査より調査方法を一部変更
出典:「SUUMO住みたい街ランキング2025 首都圏版」リクルート調べ
※2 「北千住」は駅名。地名、エリア名としては「千住」と呼ばれている。
1625年に、日光・奥州道中の第一の宿場「千住宿」として整備され、2025年に「千住宿開宿400年」を迎えた千住。
江戸時代には品川宿・内藤新宿・板橋宿とともに、江戸四宿の一つに数えられ、約1万人が暮らす江戸最大の宿場町でした。
千住宿が栄えたワケは、地の利によるところが大きいと考えられます。当時の荒川(現隅田川)は、潮の満ち引きで流れが変わることで、上流・下流双方への移動が可能だったことから、舟運を通じて、以前から物資や人の往来が盛んでした。文禄3(1594)年、そこに千住大橋がかけられ、五街道である日光道中・奥州道中が整備されることで、陸運・水運の結節点として、流通の拠点としての顔を持つようになっていったのです。
こうした地の利を活かし、周辺で生産された野菜や、川魚などが街道沿いの市場(やっちゃば)から江戸に供給され、「江戸の三大青物市場」と呼ばれるほど栄えた一方で、江戸の中心部より自由度が高かった千住宿では、裕福な商人たちが独自の文化を形成していきます。
豊かな商家の旦那衆は書画や俳諧をたしなみ、江戸の文人たちと交流することで独自の文化を築いていきました。1815年、千住の飛脚問屋の主人の還暦を祝うために開かれた「千住酒合戦」は、酒の飲み比べにとどまらず、江戸の文人たちが多く招かれ、その様子が絵巻や書画として残されるなど、当時の千住の文化度の高さを物語る一大イベントでした。
商家の旦那衆はその経済力で文人たちの活動を支え、中には千住に居を構える人も。彼らは祭礼品や掛け軸などの調度品にその筆をふるいました。普段の暮らしの中で使われていたこのような美術品が、近年、千住の旧家から数多く発見されることで、専門家からは「美と知性の宝庫」と称されています。
千住は明治期以降も、北関東や東関東から東京への玄関口として、人とモノが集まるまちして発展してきました。
千住に暮らし江戸の文人とも多くの交流をもった建部巣兆が描いた「蛍狩図」
江戸時代宿場町として栄えた旧日光街道は賑やかな商店街に
旧日光街道沿いに残る江戸時代の商家の建物
旧日光街道周辺には今も、江戸時代の面影が残る路地や商家、蔵などが点在し、江戸・明治・大正・昭和・平成・令和・・・それぞれの時代の足跡を感じることができます。古民家をリノベーションしたカフェや飲食店も多く、近年は昔ながらの建物を生かしたアートスポットも増えています。若い世代が新しいチャレンジをしやすいのは、人が行き交う宿場町だったDNAのなせる業なのかもしれません。
北千住駅西口からすぐの飲み屋横丁には魅力的な店が新旧入り混じり軒を連ねる
千住にキャンパスのある東京藝術大学と足立区などが一緒に取り組むまちなかアートプロジェクト「音まち千住の縁」が運営する千住の文化サロン「仲町の家」。江戸時代の歴史をつなぐ昭和初期の古民家がアートの拠点に
その一方で、学校の統廃合などでできた土地に誘致した5つの大学の学生が行きかう“学生街”の顔も。さらには、工場跡地の再開発などにより新たな住民も増えています千住は「歴史と今」がモザイクのように入り混じるまちなのです。
2025年、開宿400年を迎える千住。江戸時代から続く歴史を活かしつつ、新しさを取り込みながら、千住はこれからも進化を続けます。
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