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公開日:2020年9月17日 更新日:2024年9月20日
千住宿は江戸幕府第3代将軍「徳川家光」の時代である寛永2年(1625年)に整備された宿場町です。
江戸(日本橋)から延びる幕府直轄の主要な5つの街道である「五街道」のうち、2つの街道(日光道中・奥州道中)が通り、江戸四宿(五街道の初宿)の中でも最大の人口(※1)を誇り、大いに栄えていました。
※1…家数は2,370軒、人口は約1万人(天保15年「宿村大概帳」より)。
隅田川は、潮の満ち引きで流れが変わり、下流から上流へと遡ることも可能だったため、物資だけでなく人の往来にも利用されていました。
文禄3年(1594年)に隅田川で初めての橋である千住大橋が架橋され、江戸との往来が容易になりました。
千住とその周辺の農村で生産された米や野菜、河川で収穫された川魚などは、街道沿いにあった問屋街(市場)を通じて江戸へ供給されていたため、千住の市場は周辺地域の流通拠点として発達し、江戸の三大青物市場と称されていました(現在の北足立・足立市場の前身)。
千住は他の宿場と異なり、広大で平坦な土地だったため、発展に応じてまちの拡張が容易でした。
流通の拠点として、多くの商店や商人が集まり、大きく栄えた千住の街には、裕福な商家が集まり、書画や俳諧などを嗜み、江戸の文化人たちとも交流することで教養面でも豊かになり、独自の文化を築いていきました。
文化12年(1815年)、飛脚宿の主人の還暦祝いに開催された「千住酒合戦」は、単なる飲み比べ大会ではなく、酒井抱一や谷文晁をはじめとした名だたる文人・絵師が招かれ、酒合戦を題材に作品を制作した一大イベントでした。
一世谷文一「後水鳥記(酒戦之図)」
千住地域の寺院や旧家には、当時使用されていた祭礼品や調度品のほか、江戸の文人たちとの交流の記録などが数多く残っており、専門家から「美と知性の宝庫」と称されています。
建部巣兆「吉野山桜竜田川紅葉図屏風」(一部)
橋本貞秀の浮世絵 千住大橋の左側に橋戸町、川原町が描かれています。平野部にあった千住の立地がよく描かれています。
現在の千住は、当時の宿場町の名残を残す唯一の街です。近年では大学誘致により4つの大学が開設し、街に賑わいが生まれることで、魅力的で個性的な店舗が次々にオープンするなど、進化が続いています。
こうした古き良き街並みと近代的な街並みが共存しているのが、千住の魅力です。
横山家住宅 江戸時代の商家建築が今も残る、紙問屋「松屋」の建物。柱には幕末に上野戦争に敗れ、千住に逃亡してきた彰義隊士が付けた刀傷が残されている。
東京電機大学 東京千住キャンパス(平成24年〈2012年〉4月開設)
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