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公開日:2019年1月1日 更新日:2019年1月1日

~足立大好きインタビュー~ 芸人・映画監督 北野武さん

北野武さん

おいらの芸風を育ててくれた街。都会と田舎が絶妙に同居して、だから足立はおもしろい

「ビートたけし」こと北野武さんは、幼少期を足立区で過ごし、大学入学までほとんど足立区を出たことがないという生粋の「足立っ子」。昔気質の父と教育熱心な母のこと、荒川で泳いだり、河川敷で野球をしたりした思い出などをたびたび小説に書いています。その後の芸風や人生のベースになった少年時代を振り返りながら、足立区への新たな期待を語っていただきました。

子どもの想像力を喚起する自然の遊び場にあふれていた

武さんは昭和22年生まれ。梅島第一小学校、第四中学校出身。子ども時代は、荒川を中心にエネルギッシュに遊び回った。

馬場とデストロイヤーが足立区に来た日

おいらの住んでたとこから荒川行く手前に、キャンディーズのスーちゃんちがあったんだよな。釣具屋で。あすこの土手降りてくと野球やるとこあんだよ。あんまり整備されてないから、ちょっと水が上がるとすぐ1・2週間使えなくなって。少年野球はそこでしかやれないんで、野球が好きでもやるとこがなかなかなくて、あのころは竹で組んだバックネット持って行って、そこをホームにしてやったりもしたね。

荒川河川敷といえば、千住大川町にできるまでは、プールはほとんどなかったの、足立区には。大川町のプールに行きたいんだけど、満員で泳げなくて、それでおいらたち子どもはみな荒川放水路(荒川)で泳いじゃって。遊泳禁止なんだけど。おまわりに「何やってんだ」って怒られて。河童の絵に「ここで泳ぐと死ぬぞ」って書いてある看板があって、それに抱きついてんの(笑)。「お前、何に抱きついてんだ」。「これ河童」って言ったら「だから死ぬって言ってんだろ」って。で、スタコラ逃げたりね。

足立区の体育館ができて、プールができたときは大変だったね。10円ぐらいだったかな。もう人が入りすぎてね、プールなのに「泳がないでください」って(笑)。ただ浸かってるだけっていう。ひどかったなあ。それから入場制限したのかな。でも背泳は禁止とかね。

体育館に、馬場とデストロイヤーが来たことがあった。父ちゃんプロレスが大好きで、兄貴と券を買ってやって。そしたら夕方5時半ごろ開場なのに、父ちゃん昼間の10時ごろから行っちゃって、酒飲んじゃって。ずーっと酒飲んでたらバスが来て、馬場とデストロイヤーが肩組んで降りてきて。何か変じゃないか、あいつら裏じゃ仲いいんじゃねえのかって、酔っ払ってデストロイヤーに殴りかかって、それが映ったんだよ、テレビで。その当時、生中継だからさ。でかいやつに首根っこつかまれて、ポイって出されちゃって。それで夜の10時ごろ俺んち帰って来て、俺がデストロイヤーをやってやったって言うもんだから、父ちゃん、映ってたよって(笑)。

まあ、お世辞にも柄がよかったとは言わないよ。当時はおいらも含めてワルガキばかり。おでんの屋台がきたときなんて、勝手にふた開けて食ってるやつもいた。「おでん、勝手に食うんじゃねぇ」とか怒鳴られてさ。つゆかけられたりして。今思うと笑っちゃうね。

紙芝居のおじさんが拍子木打って子どもたちを集めている間に、自転車を乗り逃げされちゃって、おじさん途方に暮れちゃってね。足立区の梅田町とか島根町とかおいらの住んでるあたりは、おでん屋も紙芝居屋も来なくなっちゃって(笑)。

 兄の大さん(左)と武さん(右)-北野武-
<子ども時代、足立区島根の自宅前で、兄の大さん(左)と武さん(右)>

 

父ちゃんを迎えに信濃屋へ

まだ梅島の駅が高架になってなくて、踏み切りで、渡った右側に九中ってのがあって、これがまた当時は悪くて(笑)。俺んとこは旧日光街道だけど、新しい日光街道のほう、十三間道路って昔言ったんだけど、その手前に「信濃屋」っていう一杯飲み屋があって、父ちゃん仕事終わったらいつもそこにいて。キンリョウ会館(だったかな?)というパチンコ屋と、スナックなんとかってのがあるんだけど、父ちゃん、その3つしか行かないんだよ。だから探しに行くとそのどっかにいるんだよ(笑)。それで、「今日は親方から手間賃もらえるから、タケシ行って来い」って母ちゃんに言われて行くと、だいたい信濃屋で飲んでて、「父ちゃん、母ちゃんが、まだかって言ってんぞ」って。

うちはペンキ屋の前は弓屋やっててね。縁日やなんかでちっちゃい丸い的に当てるおもちゃの弓があったけど、あの漆を塗ってたの。もともとはぞうがんのテーブルに漆塗ってて、父ちゃんすごい誇り高くって「漆職人だ」って言ってたんだけど、戦後、漆がなくなっちゃって。足立区も沼やなんか埋めて、家が建って住宅地になって、ヨイトマケ※になっちゃったから、父ちゃんペンキ屋になっちゃって、コールタールばっかり塗ってたんだけど、昔のつながりでたまに弓の仕事があって、きれいに弓を塗って飾りもつけて。その、漆を塗る前の弓が残ってたんだけど、弓がもう全然出なくなったんで、2階にそんなものがいっぱい残ってた。その弓を下駄に打ち付けたらスキーみたいになるわけ。そりにしたりね。それで遊んでた。雪降った日、スーって滑ってったらぜんぜん滑らなくてぴたっと止まっちゃったり(笑)。父ちゃんにみっかってすごい怒られたけどね(笑)。

※建築現場で重しの槌や柱を上げ下げし、地盤を突いて地固めをすること

 

もう、悪いことばっかりしてたね

もう、悪いことばっかりしてたね-北野武-まだ池とかあって、台風になると足立区は、すぐ床下浸水になるでしょ。多いときには床上寸前まで来るわけ。いろんなものがぼんぼんぼんぼん流れてくるから、流れてきた板塀やなんかを釘で打っていかだにして遊んでたら、じゃんじゃんじゃんじゃん荒川のあっちのほうまで流されちゃって怒られたよ。近くの金魚飼ってる池の、水があふれちゃって、金魚とか鯉が流れてきて、それつかまえたり。晴れると、マッカチンってエビガニが出てきたり。もう悪いことばっかりしてたね。裏山へ行きゃヘビがいるし、カエルがいるしね。

大師様(西新井大師)は、遠足でも行くけど、よく遊びにも行った。あの当時はガラの悪い地区があって、そこのやつらとけんかばっかりしてたなあ。

浅草行ったら、店にすっぽんいくらって書いてあって、のぞいたら亀がいて、「あれ、亀だ。亀食えるんだ」ってことになって、大師様の緑亀、3匹くらいつかまえてきて、大工のせがれが解体して食ったら4人とも腹痛くなって、「お前ら死ぬぞ」って怒られて(笑)。ひどい目にあった。

梅島の隣が西新井だけど、西新井から大師様まで単線で行けるけど、横歩いていけばすぐでしょ。俺はホントは足立十中へ行く予定だったんだけど、四中のほうが進学校だって言われて、越境入学で四中へ行ってた。だから、大学行くまで足立区から出なかったね。北千住だってホントたまに行くくらいで。北千住も、ガラ悪かったよ、あのころは。千住新橋渡ったところに、ニューブリッジっていう喫茶店があったね。あそこには流しの渥美二郎の事務所があるでしょ。昔の、北千住の流しの総元締めだよ。

それから、浅草の松屋へ行くっていうのが遠足みたいなもんで。東武線で行って、松屋の中に入ってくじゃない。あれがもう珍しくて。屋上には遊園地みたいなのがあって。「松屋行くよ」っていうのは、松屋で何買うっていうのでもなくて、行くことが遠足で、うれしくてしょうがなかったね。遊ぶって言ったってそれがせいいっぱい。あとは、松屋へ行って飯食うったって、カツサンドの横にスパゲッティ、その横にチャーハンがあったりして、そんな何だかよくわかんないお子様ランチね。それ食って帰ってくることが唯一のぜいたくでね。でも面白かったよ。

 

「バカヤロウ」「コノヤロウ」をあえて使ったわけ

義理堅く、おせっかい。困っている人がいたら見て見ぬふりはできない気風のある下町。そこで話される下町言葉で80年代の漫才ブームを駆け抜けた。

誇り高く、でも、優しいおふくろ

うちのおふくろは、士官学校出た男爵家の教育のある家だったんだけど、縁あってあんな親父と一緒になっちゃったって言うんだけど、NHKのファミリーヒストリーで嘘だってわかって。ほんとは千葉の百姓の小作人の娘なんだけど(笑)。だけど、鶯谷でお店やってたのは間違いないのね。ちゃんと帽子とネクタイ売ってる写真があって「北野」って書いてある、あの当時にしたらけっこうモダンな店だった。それを博打でとられて、千住からこっちへ逃げて来た。

でも、おふくろは誇り高いから、足立区の人はおせっかい焼きが多いんだけど、そういうのは嫌いなわけ。人見知りすんの。商売でも、持ってけドロボーみたいにジャンジャン出しちゃう、ああいうのが嫌いで。行列するのが大嫌いなおふくろで、安いからって並んでると、ぶん殴られた。お金払って楽に食えるようになったら食えばいいんで、ただで食わしてやるみたいな態度の店員の店で食って何が楽しいんだって、そういうことに関しては兄弟みんな、ものすごく怒られた。でも優しいんだけどね、近所づきあいもいいし。いろんなもの買ってきて近所に配ったりするんだけど、子どもたちには、みっともないことすんなって。

うちのまわりは職人が多くて。目の前も大工だし、左官屋もいたし、うちはペンキ屋だし。そうするとつきあいが職人仲間なんだよ。職人はね、子どもは親の仕事をつぐんだよ。だけど俺んちだけは誰もつがないんだよ。おふくろが、ペンキ屋なんて、ついだってしょうがない。大学へ行けって、みんな大学行かされたんだ。だから近所では「変わりもん」なんだけど、兄貴たちが頭良かったんで、あそこは優秀で、ってことになってた。ただ、おふくろのつきあい方がうまいんで、偉ぶらないんで、孤立しなかった。あと婆さんが浄瑠璃で、お弟子さんが来てたから、それも一目置かれてたね。俺が子どものころ、よくわかんないけど、地獄のうめき声でう~う~唸ってた。そしたら、こないだ東大の図書館で、呂昇とかの並びに竹本八重子ってちゃんと出てた。だから、娘義太夫では一流だったんだね。

北野家
<平成元年ごろ、実家を建て替え、正月に兄弟が集まった。左から武さん、重一さん(兄)、大さん(兄)、さきさん(母)>

地元の人は絶対裏切らなかった

今と違って、大手のスーパーがなかったからね。地元の人は変な話、絶対裏切らなかった。「寿司屋はここ」って、もう決まってんだよ。だから新しい寿司屋ができても誰も行かないんだよね。だから、うちの近所で、新しい店が流行ったことはない。寿司屋、電気屋、薬屋・・・全部決まってんの。風呂屋まで。みんなそこのおばさんと仲いいし、つけになってて、今度でいいよって関係で、金払わねえから。ただ世間話して帰ってきちゃうって関係で。

父ちゃんは父ちゃんで、いつもの飲み屋行って、「金ねえから」って言ったらいつもの仲間が「これ飲みなよ」って言ってくれる。「どうして金ねえの」って、「いや、仕事がねえんだよ」って言ったら「じゃあ、明日持って来てやるよ」って。そんな感じだったよ。ほんとに下町の良さがあったよ。金がなくても大丈夫なんだよ。

当時は学校の先生も、よくうち来て寝てたり、腹減ったからって「おい、タケシ食わせろよ」って母ちゃんの飯食って帰ってたり、テレビがあるからプロレス見て帰ったり。

それがしばらく続いたんだけど、宅地ブームってのがあって、都会のサラリーマンの人が、建売住宅をわーっと買い出したときに、学校が乱れたっちゅうか、PTAが強くなって。うちの担任の藤崎先生ってのは短大出なんだけど、うちの父ちゃんなんか文句ひとつ言わずに「うちのガキ、ひっぱたいてやってください」って平気で言う。昔で言えば「先生様」で。それがいつの間にかPTAが「何でうちの子を殴ったんだ」って言うようになって、逆転しちゃって。

藤崎先生のころは、小学校の遠足もお金がなくて行けない子もいたんだよ。でも先生が裏へ回って、寿司屋行って、お弁当作ってもらって、全部払って、誰も知らないうちに普通にちゃんと遠足行ったの。みんなが貧乏だから、貧乏だとか金持ちだとか、そういうのがなかった。

ところが、足立区にじゃんじゃんじゃんじゃん人が流入したら、いろんな文化も入ってくるけど、いろんな人間関係が出てきて、新しく来た子達とおいらたちと、遊びが違ってたり。おいら、危険な遊びばっかりしてたから(笑)。向こうは都会の遊びだから。だから融合するには何年かかかったかもしれない。俺が小学校出るころには普通の東京になって、昔は足立区はガラが悪いとか言われたけど、そんなことはなくなってた。

 

学園闘争のおかげ(?)で演芸の道へ

俺は明治大学の工学部行ったんだけど、これから高度経済成長の時代に文化系なんか行ったら大変なことになるって、機械科へ行かされた。2・3年くらい経ったら学園闘争が始まって、社学同(社会主義学生同盟)っていうのが工学部を占拠して、入れないの。それで休校状態で、俺、行かなくなっちゃったの。それで新宿の喫茶店でボーイやってたんだけど、もう学校卒業の見込みもないし。昔よく浅草へ遊びに行ったから、行ってみたら、フランス座に「アルバイト募集/エレベーターマン」って書いてあるから、じゃあエレベーターマンでもやりながら将来考えるかって。

そしたら踊り子さんとか師匠が、早く上で舞台に出られるようにしろって言うから、上に行って見てみたら、つまんないことやってるんだよ。なんだこれ、って。でも1日3回くらい舞台出て、2・30分やってお金くれんならこれは楽なもんだ、あとは寝てりゃいいんだからって、エレベーター上がって上に来ちゃったの。そこはコメディアンショーが多いんで、いつの間にか俺もコメディアンになってここまで来ちゃったよ。

深見千三郎の弟子になって、そこで何年かやったんだけど、演芸場ってとこで、女の人の裸見に来る客が来るから、笑わせるのがぜんぜん楽だからって聞いて、そこへ見に行ったら、つまんないことで客が笑うんだよ。そんな簡単なことねえって思って、演芸の道に入った。そしたら思ったよりウケるんで、いろんなとこ行って、それで今になっちゃった。だから芸能界入る気なんてさらさらなかった。学園闘争のおかげみたいなもんで(笑)。

 

東京の「バカヤロウ」と関西の「アホか」

東京の「バカヤロウ」と関西の「アホか」-北野武-NHKがつくったラジオ用の言葉っていうのが標準語なんだよね。あれは東京の言葉じゃないんだよね。おいら、「まっすぐ」って言えない、「まっつぐ」ってね。「しろしま」だし、「しゃくえん」だし、「おいら」だから。僕たちなんて言わない。だけど、その当時の漫才は「昨日、君の家へ行ったけど、君、どうしてたんだい?うちの妻(さい)がね、君のとこ、サイ飼ってんのか」って、そういうような漫才で。それでずっと来ちゃってたから、ベタベタの関西弁の「何言うてまんねん」「何やそれ」「あほか」っていうような言葉に圧倒されたんだよ、一時。

それで俺が漫才師になったときに、こんな標準語で漫才してたらすぐに終わっちまうわ、って言って、明らかに標準語と違う、足立区とか台東区の下町言葉でやったの。「何言ってんだ、バカヤロウ、コノヤロウ」「あれだろ、おめえ」ってやってたら、オーディションなんかでプロデューサーが、「一体どこの出身?下品な言葉だねえ」って言うから「何が下品だよ、東京だよ」って。「東京の人、そんなに訛ります?」って言うから、「お前らみたいなのは標準語って言うんだよ。『NHKの標準語』だよ。東京はこういうしゃべり方だよ」っつって。その芸風でやっと、関西弁に対抗できたんだよ。そういう意味じゃ、おいらの芸風や話し言葉のリズムってのは、足立区で培われたものなのかもしれないな。

東京って、つなぎの言葉で「バカヤロウ」が入るから、「何言ってんだ、バカヤロウ」「いい加減にしろよ、バカヤロウ」「心配したぞ、バカヤロウ」って、どっちなんだかわかんない(笑)。とりあえず「バカヤロウ」が入るんだね。

関東での「何言ってんだ、バカヤロウ」ってのは、バカヤロウとは思ってない。関西の「アホか」って言うのと同じ。「自分(相手のこと)、あれとちゃうん?」ていうのと、「おまえ、あれじゃねえかよー」って言うのと、「あんたはあれですか」って言うのと全然違う。リズムが違う。漫才においては、下町の言葉でないと対応ができない。それがもう市民権、得ちゃったんで、自分の出てるテレビの番組は標準語、使わねえもん。わざと、「おいらんとこはよー」とか。

それで、自分のテレビにおける存在感みたいなものができたよね。それがいまだに続いてて、やっと東京人の漫才師が、「おめえよー」って言葉を使うようになった。

昔はよく、ざあます言葉とか、ばかにしたよね。「~してよろしいでしょうか」とか聞くと、「何言ってやんだい、バカヤロウ」って。それはやっぱりお笑いの原点である、権威に対する逆らい方っていうか。何を気取ってやんだい、バカヤロウって。

関西の言葉のリズムと関東の下町のリズムはだいたい似てるんで、漫才って商売が、関西だけのものでなくなったね。

そもそもは、ラジオができて、全国共通の言葉を東京の言葉と勘違いしちゃったから、何の味もない言葉になっちゃったんだよ。

 

荒川でロックコンサート。おいらも参加するぜ

久しぶりに足立区に帰ると、町の変貌に驚くという。それでも残しておきたい下町の人情。区の発展を応援する新しいアイデアも披露してくれた。

68万人の区民は全員、読むようにな

北千住あたりはずいぶん変わったね。「住みたい街」ってのにランクされるっていうじゃないの。すごいね。

一応足立区は東京都なんだけど、東京の北の端、トンボおっかけてたら埼玉に入っちゃうみたいな。学校の友達も、越谷のほうから来るやつもいるし、春日部から来たり。他県とのつながりと、あと、江東区とか荒川区とか、荒川沿いの他区ともつながってて、お互いひがみあったりね(笑)。遊び場も、都会の遊びも知ってるけど、実は田舎もあるの。昆虫とか動物とも遊べて。子どもの教育にとってはいい環境だと思うんだよね。あらゆるものを楽しめてね。都会と田舎の境みたいなところで、この地の利がいいんじゃないの。いろんな人や文化が流入するし、宅地化されてないところもまだ残っているからね。

土手
<荒川土手>

 

もっと若い人を呼び込みたいんだったら、荒川の花火大会もいいけど、河川敷を使って大ロックコンサートなんか開くといいんじゃないかな。夏の足立区はこれがあるっていうのがあるといいね。恒例行事としての足立区の何かね。

俺は「足立区バンド」っていうのをやってるし、河川敷で大ロックコンサートやるなら、おいらの「足立区バンド」も参加するからさ、呼んでくれよな。毎年、足立区でライブをやってもいいんだけど、ただ、ライブを見た人がひっくり返るという、絶対人に言っちゃいけないライブなんで(笑)。スマホや、あらゆるものが禁止のライブで、放送禁止。テレビで絶対やらないライブ。今までも、いろんなところで10回以上やってるんだけど、チケット買うのが7倍くらいの倍率なんだよね(笑)。

それから、俺の小説を読んでくれよな。『フランス座』ってタイトルで文春から出したけど、やたら足立区の話が出てくるからさ。

足立で育った思い出は、まだまだ言い足りないし、書き足りない。最近はますます「足立愛」が昂(こう)じちゃって、今年『足立区島根町』っていうタイトルの小説を出版する予定なのよ。小説だから名前は出せないけど、足立区のある高校の野球部の4人組の話で、その4人がリタイヤして、4号線を上野に向かって北千住駅のほうへ左折したところ、昔ミドリヤとかいろいろあったあたりなんだけど、そのあたりにある焼き鳥屋でいろんな話をして。女房が死んだ奴、アパートをマンションに建て替えて家賃で食ってる奴、年金で食ってる奴、女房に逃げられた奴・・・。北千住を中心にいろんな話して。「北千住で飲んでても昔はなあ、タクシーが千住新橋を渡ってくれなかったんだぞ」「なんで?」「新橋渡ると金払ってくれないやつがいるんだ」とか(笑)、いかに足立区がひどかったかって話してゲラゲラ笑ってさ。

68万人の区民は全員、読むようにな。足立区のいいところが、改めてわかるからよ。ほんと、足立っておもしろい街なんだよ。

 

北野武(きたのたけし)

1947年1月18日生まれ。足立区出身。
4人兄弟の末っ子で、2番目の兄が秋草学園短期大学 学長・北野大さん。梅島第一小学校、第四中学校、都立足立高校卒業。現在はお笑い芸人・映画監督・俳優など、幅広く活躍している

 

著名人が語る!足立大好きインタビュー

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