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公開日:2012年7月21日 更新日:2022年10月24日

~足立大好きインタビュー~ プロサッカー選手 工藤壮人さん

 

足立区出身でサッカー元日本代表の工藤壮人さんが令和4年10月21日に亡くなりました。
あだち広報やホームページ「足立大好きインタビュー」、はやねはやおき朝ごはんポスター等、たくさんのご協力をいただき、足立の子どもたちに夢と勇気を与えてくださいました。
心より哀悼の意を表します。

 

 

柏レイソル 工藤壮人さん
「あたたかいまち・足立で育った」

足立の子どもたちは特にスポーツと音楽の分野で全国レベルの力を持つ子が多い。足立の大地を走り回り、鍛えた足で、2010年にはU-21日本代表に選ばれ広州アジア大会にまで出場した工藤さんに足立を聞いた。

ランドセルをリュックに替えて

工藤壮人さん

僕がサッカーを始めたのは、サッカー少年だった兄の影響が大きいです。3歳くらいからボールを蹴り始め、家の中にも外にも常にサッカーボールがある生活でした。本格的にサッカーをやっていた兄の脇で、ボールで遊んでいたのが最初の頃です。ボールを蹴るのが本当に好きだったので、毎回のようについて行ってはちょこちょことボールを蹴っていました。そのうち、東伊興小学校をベースに活動するチームに入り、毎週水土日に練習し、ときどき土日に、舎人公園やどこかの小学校のグラウンドで試合をする生活でした。区北部の人たちは、土日は舎人公園でよく試合していて、僕も舎人公園での試合は印象に残っています。

そんなとき、兄が柏レイソルU-12のセレクションを受けて落ちてしまったのを見て、自分も受けたいと思った。兄の分も自分がやる、という気持ちにもなりました。小学3年生の終わりに受けたのですが、試合で、みんなどんどん前に出るので、これじゃあまずいなと思って後ろの方にいたら父親に「お前も前に行け!」と怒鳴られてようやく前に出たが、思うようには動けなかった。自分でも納得いくプレイができず、目立てなかったので、父も自分も、まさか受かるとは思っていなくて、自分の受験番号を見つけたときには本当にびっくりしました。でも僕よりも父親の方が喜んで(笑)。父も大学時代にサッカーをやっていたので、僕のプレイにめちゃめちゃ怒ってたんですが、その怒ってた父親が、飛び上がるように喜んでくれて。その光景は今でも鮮明に覚えていますね。なぜ受かったのか?それがいまだに謎なんです(笑)。

そして4年生から、柏レイソルU-12に正式に入りました。入ってみると、いやあ、みんな、うまかったですね。話を聞くと、有名なチームのキャプテンだったり、でかい選手はいるし、足の速い選手はいるし。負けたくないって気持ちにはなりましたけど、フォワードに固執することなく、練習に臨みました。

チームに入ってからは、学校から帰ったら、ランドセルをリュックに替えて、竹ノ塚から北千住、そして柏へと、電車を乗り継いで通う毎日。学校のことはおろそかにしてはいけないと親からきつく言われていましたから、どんなに疲れていても宿題はきちんとやっていました。好きなサッカーができるので、勉強は全く苦にはならなかったですね。遅いときは11時半くらいに寝ることもあったけど、学校行っても休み時間になったら外で遊んでましたしね(笑)。

近所で友達とたくさん遊んだ

週に4回か5回は練習でしたが、残りの2日か3日は自由な時間があったので、友だちといろんなところに行ったりして、すごく楽しく毎日を過ごしていた覚えがあります。夏は何カ所もプールを巡って。家の近くには公園がいたるところにあったし、特に団地の中にあるグラウンドにはよく集まりました。いろんな学校の子がそこに来て、野球やってる子がいたら僕も野球をやったり。サッカーの技術もここで磨いてきました。そういう場所でいろんな子たちとのコミュニケーションもはかれた。自然と集まれる場所がたくさんあったのは恵まれていたと思います。200円持って駄菓子屋に行ったり、たっぷり遊んで、夕焼けチャイムが鳴ったら帰ろうって、そんな毎日でした。東保木間の総合スポーツセンターにもときどき行きましたし、父親が休みのときは一緒に荒川土手まで行ってサッカーやったり。今から思えばあのころは忙しかったけど、本当に元気だったなあと思います(笑)。

自分自身も、よく遊びましたし、足立の子どもたちは外で遊ぶのが好きだなと思いますね。今の子は外で遊ぶ機会が少なくなってるって聞きますけれど、足立区の実家の近くの公園でも元気に遊ぶ子どもたちの姿をよく見ます。

最近、自分たちがよくサッカーやってたグラウンドに、近所の人の迷惑になるからということで「球技禁止」の看板が立っているのを見て、ちょっと悲しい思いがしました。自分たちはここで、技術を磨いてきましたので。

温かいまちの人たちに見守られて

出身の保木間小学校前にて

ずいぶん騒いでいたことと思いますが、大目に見てくれ、温かく見守ってくれた近所の人や駄菓子屋のおばちゃん、まちの人たちのおかげで、元気にすくすくと自分たちは育ってこられたと思います。だから僕は区出身として、もっと注目してもらえる活躍をして、今度は皆さんに勇気を与えられるような存在になれたらと思います。今はチームのある柏にいますが、プロになるまでずっと足立区でしたし、今も両親は足立にいます。自分にとって足立は、とても温かい存在です。

つらかった時代?それはもちろんありました。たとえば中2の頃、チームでまったくベンチに入れないときがありました。サッカーは好きですし、レイソルでやっていきたいけど、そして、自分に対するゆるぎない自信というのはあったのですが、「試合に出られない」という現実が目の前にあるわけですからね。U-18には上がれないのかな、と思っていました。その時代は一番つらかったです。

でも、そういうことをあれこれ考えて思い悩んでも仕方がないと思った。中2だったので、まだ残り1年あると考えて、とにかく目の前の、日々の練習を一生懸命頑張りました。練習後も自主練をやったり。自分のできることを本気でやって、それでダメだったら仕方ない、という気持ちでやってました。プロになってからも、つらいこと、厳しいことはありますが、根本的にサッカーが好きなので、乗り越えられると思います。

2010年のプロ初ゴールシーン

日本代表として広州アジア大会に出場して優勝したことは、素直にうれしかったですね。レギュラーで出られたらもっと良かったんですが、それはまた、来年ですね。J1の舞台で、しっかり結果を残して、柏レイソルの工藤というのを全国に知ってもらいたい。そして、何回も何回も代表に選ばれるように、また頑張ろうと思います。

足立区の子どもたちには、たくさん外で遊んで、スクスク育って、「同じピッチで戦える日を楽しみに待ってるよ」と伝えたい。僕も、それまで残っていられるように頑張んなきゃいけないですしね(笑)。サッカーでなくても、みんなそれぞれいろんな夢があると思うけど、ちょっとダメかな……と思うときがあってもあきらめずにやり続けることが絶対にプラスになるから。足立の子どもたちには、本当、頑張ってほしいなと思いますね。乗り越えられない壁はない。僕にも何度も、そういう時期がありましたから。

足立区は一番長く住んでる区ですし、僕にとってはとても温かい、大切な存在です。地元では、足立区南花畑の名物バウムクーヘンが大好物なんです。僕は甘いもの好きでチームでもよくからかわれるんですけどね(笑)。

<談2010.12.10.>

くどう・まさと

柏レイソル所属、サッカー選手。ポジションはフォワード。2歳より足立区。小学生のときからレイソルの下部組織U-12に所属。2008年日本クラブユース選手権得点王。2010年J2リーグ対アビスパ福岡戦でプロ初ゴール。2010年、U-21サッカー日本代表としてアジア大会出場、金メダル獲得。

 

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著名人が語る!足立大好きインタビュー

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