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公開日:2018年12月18日 更新日:2020年8月8日
森鴎外が書いた記念碑
森鴎外(もりおうがい)は明治・大正時代を代表する文学者で、しょうせつ『舞姫』や『高瀬舟』の作者です。
1879年(明治12年)から1892年(明治25年)の間、千住には鴎外の父、静男(しずお)や彼の家族が住み、鴎外も1881から89年(明治14から22年)の間、ドイツりゅう学をはさんで千住に住みました。鴎外という名前も千住を意味していました。
1886年(明治19年)、江北の人々が作った3225本のサクラなみ木は五色桜とよばれ、明治から昭和時代のはじめにかけて足立の名所になりました。
このサクラのなえ木がアメリカワシントンにおくられ、ポトマック川の川岸のサクラとなりました。みごとなサクラを見るために多くの人がおとずれました。
文豪(ぶんごう)として知られた作家もおとずれ、田山花袋(たやまかたい)の『東京近郊一日の行楽』や永井荷風(ながいかふう)の『放水路』という作品にえがかれています。ざんねんなことに荒川放水路のけんせつで五色桜はすがたを消してしまいました。
1917年(大正6年)の五色桜
昭和時代の自由主義思想家の河合榮治郎(かわいえいじろう)は千住の酒屋の生まれでした。
また為成菖蒲園(ためなりしょうぶえん)は千住の人で、高浜虚子(たかはまきょし)の教えを受けた俳句作者です。千住河原町でヤッチャバ句会という俳句の会を開きました。
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