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公開日:2023年11月8日 更新日:2023年11月8日

徳川家ゆかりの地を辿る - 足立区に遺る歴史の足跡 -

足立区内に「徳川家ゆかりの地」がたくさんあることをご存じですか?
かつて徳川家の直轄領だった足立区には、今も「徳川家ゆかりの地」が点在しています。今回の特集では、今に伝わるエピソードや貴重な文化財とともにゆかりの地をご紹介します。

 

※イラストはイメージ。名称など、一部略称です。

足立区に遺る「徳川家ゆかりの地」

徳川家ゆかりの場所MAP

 

 

ゆかりの地を訪れるときの注意事項
ナビゲーター:あだち観光将軍
(一財)足立区観光交流協会・大西課長

 


 

延命寺

 

竹の塚に住んでいた武士の河内知親(こうちともちか)は、慶長17(1612)年に初代将軍・家康(いえやす)に仕え、甲斐(現在の山梨県)の徳川家領の代官を務めました。知親の息子の胤盛(たねもり)は大坂の陣(慶長19[1614]年~ 20[1615]年)に参戦、その子・胤次(たねつぐ)も戦を主任務とする大番となり、没後に葬られたのが延命寺です<のち西光院(さいこういん)[竹の塚1-3-16]に改葬*>。
*改葬...一度葬った遺骸を改めてほかの場所に葬りかえること


 

2.西新井大師・總持寺

2.西新井大師のご本尊である「十一面観音像」は弘法大師が彫ったと伝えられています

西新井大師は、学問所としても古くから名声を得ていました。慶長18(1613)年4月4日、家康は全国から選抜した真言宗の学識有力寺院を集めた討論会を駿府(現在の静岡県)で開催。その席に西新井大師の僧侶が出席し、家康と直接会って討論しています。当時の家康は、将軍職を息子の秀忠(ひでただ)に譲り、大御所として実質的に全国を支配していました。翌年には大坂の陣が起こるという緊張の時代の出来事です。


 

3.性翁寺

 

3.ご本尊は、6体の阿弥陀様をつくった際の余り木でつくったことから「木余り如来」と呼ばれています。

檀家(だんか)の武士が寺院を盛り立てようと将軍家に働きかけたことがきっかけで、慶安2(1649)年に3代将軍・家光(いえみつ)から領地を与える朱印状*を拝領しました。ご本尊の「木造阿彌陀如来坐像(もくぞうあみだにょらいざぞう)◆」は東京都指定文化財に登録されており、絵画「性翁寺縁起絵(しょうおうじえんぎえ)◆」も足立区登録文化財となるなど、多くの文化財を今に伝えています。


*朱印状... 将軍が代替わりごとに大名や公家に出す保証書。有力寺院や神社に朱印状が出されると、大名や公家と同じ格式になる重要な文書


 

4.吉祥院

4.吉祥院には、旧山門のほか大正時代まで山門に掲げられていた「渕江山」の山号額などが残されており、足立区登録文化財となっている。

戦国時代から、現在の足立区とその周辺地域の有力な寺院で、江戸時代には真言宗の22の末寺(本山の支配下にある寺)を持つ中枢寺院の1つでした。江戸城の重要な儀式の1つに、正月に江戸城に登城して将軍に挨拶する「年頭挨拶」があり、諸大名、公家などのほか重要な神社や寺院の住職が参列します。吉祥院は、歴代住職が正月に江戸城に登城する寺院で、登城する際に利用していた駕籠(かご)◆が現在も残っています。 

 


 

2代将軍・秀忠と3代将軍・家光が鷹狩(たかがり)*の際に訪れた寺院です。当時、この周辺は区内有数の教育施設が多く集まった地域で、幕末にこのお寺で開かれた私塾では、寺子屋の域を超えた高等教育が行われていました。

*鷹狩...飼いならした鷹を野山に放って鳥や猪などを狩る狩猟の一種。江戸時代の武家たちは、技の向上と訓練のために盛んに催した。当時、足立区全域が鷹狩を行う「鷹場(たかば)」となっていた。

5.實性寺


 

6.國土安穏寺

 

6.家光に献上されたのは、青菜が入ったお吸い物に焼き豆腐を浮かせたシンプルな料理でした。

國土安穏寺は、将軍が鷹狩などでこの周辺を訪れた際の食事や休憩をとる場所(御膳所)となっており、2代将軍・秀忠の時代から将軍が頻繁に訪れていました。8代将軍・吉宗(よしむね)が来訪した際には、目付衆・上級幕臣をはじめ警護の侍も配置されたほか、地元島根村(現在の足立区島根等)の人々も接待のため動員され、総勢100人程が御膳所を運営しました。言い伝えも豊富で、3代将軍・家光が訪れた際に焼き豆腐を献上したことや、9代将軍・家重(いえしげ)がお世継ぎ時代に食事をしたことなどが今に伝わっています。


 

7.薬師寺

 

徳川光圀(みつくに)がこの寺院の「薬師如来」に祈願すると目の痛みが取れたという逸話が伝えられています。元々は「不動院」という名称でしたが、この出来事をきっかけに薬師如来にちなんだ「薬師寺」と改名するように光圀が進言し、現在に至るといわれています。


 

8.勝專寺

8.鎌倉時代後期、隅田川から引き上げられて勝專寺にまつられたこの千手観音が「千住」という地名の由来となったという説があります。

慶安2(1649)年、4代将軍・家綱(いえつな)がまだお世継ぎだったころ、将軍家の重要な儀式である日光東照宮参詣(さんけい)の大役を担いました。このとき、勝專寺とその西側一帯を含む広大な敷地に中継地点として御殿が建設され、勝專寺はその管理者となりました。家綱の側近たちも随行し、幕府高官や江戸に残る諸大名と往復する使者が行き来したそうです。また、御殿は臨時の儀式の舞台にもなり、関東地方の長官・伊奈忠治(いなただはる)が舞を献じたことが、徳川家の史書「徳川実紀(とくがわじっき)」にも記載されています。


 

9.清亮寺

9.かつて山門のすぐそばにあった実際の槍かけの松です。

徳川光圀(みつくに)が槍を立てかけたことから名が付いたと言い伝えられている「槍掛けの松」があった寺院です。山門にかかっている「久榮山(きゅうえいざん)」と書かれた山号額は足立区登録文化財となっています。


 

 

まだまだある「徳川家ゆかりの地」

小菅御殿

9代将軍・家重のために建てられた御殿

9代将軍・家重は、幼少のころ病弱で大変内気だったといわれています。そこで父親の8代将軍・吉宗は健康で積極的な子に育てようと、当時自然豊かだったこの場所にあった代官・伊奈(いな)家の屋敷を利用した御殿を建て、そこに家重を住まわせることにしました。それが「小菅御殿(こすげ ごてん)」です。家重は小菅御殿で、農家の子どもたちと同じように川や池で魚とりをして遊ぶなど、とても自由にのびのびと育てられました。数カ月もすると、家重は目に見えて丈夫に明るくなっていったそうです。ちなみに吉宗自身も、たびたび御殿を利用しました。将軍が数日間宿泊することもあり、老中をはじめとする幕閣や警護番、諸役人の執務室も設けられました。また、臨時の幕府政庁の役割も果たしました。

(西綾瀬1-8<現東京拘置所とその周辺>)

 

神領堀・神領橋 (神領堀親水緑道)

没した将軍の領地にあった堀と橋

神領(じんりょう)堀(ぼり)にかかる神領(じんりょう)橋(ばし)】
神領堀(じんりょうぼり) にかかる神領橋(じんりょうばし)

現在の足立区西部(鹿浜や江北)などは、将軍の霊廟(れいびょう) (先祖の霊を祀ったたてもの)を建てるため、将軍家から奉納された菩薩寺である寛永寺の土地でした。将軍は没すると「神」となるため「神の領地」=「神領(じんりょう) 」となりました。その神領にある用水路が「神領堀(じんりょうぼり) 」、神領堀にかかる橋が「神領橋(じんりょうばし)」と呼ばれるようになりました。

(江北3-19~39あたり)

 

千住大橋

隅田川に初めてかけられた橋

天正18(1590)年、初代将軍・家康は江戸に入ると領国の整備の一種として橋梁の建設をはじめました。文禄2(1592)年になると、当時「入間川」と呼ばれていた現在の隅田川に橋をかけるため、側近であり代官頭である伊奈 忠次(いな ただつぐ)を派遣。翌年9月に千住大橋が完成しました。隅田川にかけられた初めての橋だったため、当時は「大橋」と呼ばれ、別の橋がかかった後に「千住大橋( せんじゅ おおはし) 」と呼ばれるようになったといいます。

また、橋の傍には徳川将軍家の人々が船で訪れた際に上陸するための御上がり場(千住大橋際御上がり場)(せんじゅおおはしきわあがりば)が作られ、将軍や世継ぎたちが千住近郊の鷹場や小菅御殿へ向かう際に通常利用されました。現在の千住大橋の下にかかる千住小橋の傍では、12代将軍・家慶(いえよし)が千住大橋際御上がり場を利用している様子の絵(嘉永元[1848]年「千住大橋之図(せんじゅおおはしのず) 」)や江戸城から千住大橋際御上がり場までのルートを示した当時の地図など、千住大橋際御上がり場についての展示を見ることができます。

ちなみに、完成当時の架橋地点は現在より200m程上流だったそうです。流出や老朽により何度もかけ替えられ、位置も形も変化していきました。現在のアーチ型のつくりになったのは、昭和2(1927)年のことです。

(千住橋戸町)

千住大橋
千住大橋

千住大橋際(せんじゅおおはしきわ)御上(おあ)がり場(ば)についての展示
千住大橋際御上がり場についての展示

 

名倉医院 

13代将軍・家定が来訪した建物が現存

名倉医院
名倉医院

江戸時代には、骨接ぎの代名詞といわれるほどに有名だった名倉医院(なぐらいいん) 。下妻街道(千住宿で分岐し奥州街道に合流する街道)に面し、日光街道中や水戸街道分岐点を間近にして交通の便が良かったため、たくさんの患者が運ばれてきたといいます。その噂が江戸城まで伝わったことで当時、世継ぎ(次代将軍)だった13代将軍・家定(いえさだ)が来訪することになりました。その際に建てられたのが現在も残っている母屋や長屋門。将軍家が利用した建物が現存する区内唯一の事例です。

(千住5-22-1)

 

甲良屋敷跡

日光東照宮を手がけた大棟梁の別荘跡

初代将軍・家康が祀られた日光東照宮を建築した大棟梁・甲良(こうら)家の別荘跡地です。甲良家は代々、幕府重要建築の大棟梁を務め、江戸城の造営にも関与している工巧名家といわれた家柄です。4代将軍・家綱(いえつな)の時代、甲良家3代目・宗賀(むねよし)が日光東照宮の修繕の褒美で別の地域にあった幕府の土地に建てた立派なお屋敷(拝領屋敷)を与えられましたが、寛文10(1670)年ごろに建てられたこの甲良屋敷に居住しました。

(千住旭町10-31<現千寿常東小>)

千寿常東小学校
千寿常東小学校

跡地を示す石碑
跡地を示す石碑

 

徳川家にまつわる語り伝え

四ツ家村の「餅なし正月」

かつての四ツ家村(現在の青井2あたり)に伝わるお話です。
四ツ家村には、将軍がよく鷹狩に来ていました。村に将軍が訪れる時は、道の草刈りやにおいのするものに蓋をするなど村全体をきれいに片付け、特に火の元には特に注意を払うようにしていたそうです。

ある年のお正月、将軍が突然鷹狩に来ることになりました。村人たちは大慌てで村を片付けましたが、その夜のこと。あろうことか、餅を焼いた火から火事を出してしまった家があったのです。村全体が幕府から厳しいお咎めを受けたので、四ツ家村ではあるルールが誕生しました。

「四ツ家村ではお正月に火を使って餅を食べてはいけない!」

その数年後、四ツ家村に引っ越してきたばかりの家がお正月にお雑煮の餅を食べてしまいました。すると数日後、その家から火の手が上がり、なんと全焼してしまったのです。それを見た四ツ家村の村人たちは「お正月に餅を食べると、火の神様のたたりにあう!」と思い、今まで以上にお正月に餅を食べないルールを固く守るようになったそうです。

 

幻の舎人御殿

舎人のあたりも、将軍が鷹狩を行う鷹場の一つでした。そのため、この地域には将軍家が来訪した時に利用・休憩するための御殿が建てられ、2代将軍・秀忠が訪れたといわれていますが、御殿の場所がはっきりわかっていません。かつて舎人に存在した小字「御殿」のあたりかもしれないし、別の場所が御殿だったのでは、という説もあります。将軍が訪れる御殿なのですから、ちいさくはなかったはずなのに地図に残っていない不思議・・・。
さて、真相はどこなのでしょうか。

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