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公開日:2022年4月12日 更新日:2022年7月1日

昭和のあだち写真展-写真に刻まれた、エピソードとともに-

区制90周年記念企画「昭和のあだち写真展」-写真に刻まれた、エピソードとともに-

足立区制90周年記念ロゴ

 

 

 

 

令和4年10⽉1⽇。昭和7年に誕⽣した⾜⽴区は、区制90年を迎えます。

あだち広報4月10日号「昭和時代の足立区を振り返る」特集(電子ブック「カタポケ」で開く)をおこなうにあたり、たくさんの区民の方々から戦時中や昭和時代の様子が分かる貴重な資料をお貸しいただきました。今回、広報紙では紹介しきれなかった写真や資料の一部を、そこに刻まれたエピソードや想いとともにご紹介します。

 

 

 

「昭和のあだち写真展-写真に刻まれた、エピソードとともに-」パネル展の様子

 

 

あだちと戦争

 

出征する父と武運長久を祈る家族たち

画像:出征する父と武運長久を祈る家族たち

 

19歳の若さで戦地へ

出征前の父と自宅前で記念撮影に収まる家族や親戚、近所の人たち。この4日後に父は入隊し、戦地へと赴きました。昭和18年には学徒出陣で20歳以上の学生が在学途中で徴兵されましたが、翌年の昭和19年には、父のもとにも召集令状が届きました。大正14年生まれで尋常高等小学校を卒業後、大蔵省に入省した父は当時まだ19歳でした。

多くを語らなかった父

出征した父は大陸で終戦を迎え、その後シベリアに抑留されました。シベリアから送られてきたハガキは、漢字が読めない祖母のため、すべてカタカナで書かれていました。「オカアサンハジメミンナゲンキノコトトオモイマス。ジブンモアイカワラズゲンキデス。アンシンシテクダサイ。」父は昭和23年に帰還して、昭和27年に結婚、昭和30年に私が生まれました。よほどつらい思い出だったのか、父から戦争の話を聞いたことはありませんでした。

祖母が語っていた戦争

祖母からは何度か戦争の話を聞きました。入谷地域もB29による爆撃を受けて多くの犠牲が出ましたが、爆撃機が近くに墜落したこともあったと聞きました。戦争末期で女性や子どもしかおらず、手にする武器もなかったので、竹槍や鍬を武器代わりに持って、墜落機の様子を見に行ったそうです。

 

※武運長久とは、武人としての命運が長く続くこと。また、出征した兵士がいつまでも無事なこと。

 

写真提供:福田 嘉之 様


 

戦争に行った父の兄はそのまま帰って来なかった

画像:戦争に行った父の兄はそのまま帰って来なかった

父の兄は沖縄戦に出征した

写真の中央で軍服を着て、たすきをかけて写っているのが私の父の兄です。私にとっては伯父になりますが、伯父は沖縄戦に出征して、亡くなったそうです。
亡くなったという連絡だけで、骨も何も帰って来なかったと聞いています。後方に写る私の父(のぼりの右側)も沖縄戦とは別に出征しましたが、父は帰って来ました。

 

戦時中の写真

幼い頃の母を見た

あだち広報で今回の企画に応募するため、昔のアルバムを見返して、叔母(母の妹)にも連絡して思い出を聞きました。結婚式の写真は、祖母の弟が焼失前の千住神社で撮った写真だそうです。大正13年生まれの母が10歳くらいの姿で写っているので、昭和初期のものだと思います。

写真提供:中野 直子 様


 

後世に残していってほしい
画像:B29から投下されたビラや戦時中の新聞

 

戦死した父が生きた時代を知りたくて

解体業の仕事をしており、仕事先で見つけ、持ち帰っていいとのことだったので、もらいました。フィリピンの戦地で父が亡くなったこともあり、戦時中のことを知りたくて勉強するために戦争関係の資料を集めていたんです。

戦争の記録を後世に引き継ぐ

ずっと大切に保管していたけど、自分も高齢なので、このまま持っていても勿体ないかなと思っていたんです。近くの学校に渡そうと思っていたので、広報紙での戦争関係の資料の募集があって良かったです。
戦争のことがよく分かる資料だと思うので、活用していってもらえたら嬉しいです。

※B29から投下されたとされるビラには「日本軍が無条件降伏するまで攻撃を続ける」といった、トルーマン米大統領の対日声明文が書かれている

 

提供:野崎 長信 様


 

大切に保管されていた戦時中の品々
画像:軍隊手帳、青年学生手帳、国庫債券

 

大正4年生まれの父が亡くなって10年以上が経過したため、家の遺品を整理していたところ、父や父の妹である叔母が残した戦時中の品々が見つかりました。父の軍隊手帳や叔母の青年学校手帳のほか、昭和15年に父と叔母、それぞれに下賜された「支那事変行賞賜金国庫債券」などが大切に保管されていました。父の国庫債券は何枚かなくなっていたので、もしかしたら戦時中に使用したのかもしれません。


※支那事変行賞賜金国庫債券とは...
昭和15年に大蔵省が発行し、支那事変(日中戦争)で功績をあげて帰ってきた兵士に報奨金の代わりに交付したもの。昭和21年、GHQの指令によって無効とされた。

 

提供:小田 早苗 様


 

 

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「昭和のあだち写真展-写真に刻まれた、エピソードとともに-」パネル展の様子

 

 

 

あだちの風景

 

移り変わる西新井を間近で見てきた

移り変わる西新井を間近で見てきた

 

今とは違う風景が広がっていた

昔は、西新井駅西口側のエリアには日清紡績の工場が立っていて、大きい池があったんです。今ではここにアリオ西新井ができ、補助100号線(「日清紡績工場」写真の左にあるドラム缶の先あたり)が通り、全然違う景色になりましたね。昭和16年から本木町2丁目(現在の西新井本町5丁目付近)に住んでいるので、このまちが変わっていく姿をずっと見てきました。

画像:補助100号線

写真が当時を思い出させてくれる

西新井といえば西新井大師が有名だけど、実は昭和41年に火災で全焼していて、今の大師は再建後のものなんですよね。大師はたくさん撮影してきたけど、再建中の工事の写真を持っている人はなかなかいないんじゃないかな(笑)。ほかにも、雪の中、100体くらいあるお地蔵様を撮影しに行ったことも。写真を見ると、まちの変化が分かるから、色々な写真を撮っておいて良かったなあと思います。

画像:再建中の西新井大師

自分の写真が誰かの心に届いて欲しい

この写真も私が撮りましたが、ほかにも色々撮影していて、新聞に掲載されたこともあります。実は、あだち広報(平成28年5月25日号)の表紙の鳥の写真も、私が撮影したものなんです。自分の写真が何か役に立てば良いなと思って今回提供しました。皆さんに見て懐かしんでもらえたら嬉しいです。

 

写真提供:関谷 達海 様


 

頑張って手に入れたカメラで映し出す

画像:頑張って手に入れたカメラで映し出す

 

台風による被害が多かった昭和20~30年代

この写真は台風後に撮影した江北橋。水かさが増して、橋脚が結構水で見えなくなっていると思いますが、普段はもっと水位が低くて地面が見えるくらいだったんです。
その当時は台風が多かったから、名前は覚えていないけど、結構大きいものでした。堤防が低かったから、浸水被害もよく起きていました。自分の家は幸いにも被害はなかったんですが。

欲しかったからこそ、忘れない

このとき、撮影したカメラは確かドイツ製のもので、15歳のときに買ったんですよね。どうしてもどうしてもカメラが欲しくて、頑張ってお金貯めて、分割払いで買いました。昔のことをあまり覚えていなくても、この記憶は強く残っていて、年齢もちゃんと覚えているんですよね(笑)
当時はカメラ以外にも欲しいものがたくさんあって(特にバイク)、平日の仕事の給料は家族に渡していて使えなかったので、土日にアルバイトをしてお金を貯めていました。

趣味のバイクで知り合った妻

手に入れたバイクで、ツーリングに行き、よく写真を撮っていました。
あるとき、バイクに乗せてくれる人を探しているから、来てくれないかと言われて行ったんです。そのときに乗せたのが妻の妹だったんです。妻から「急なお願いにもかかわらず、妹のためにわざわざ来てくれてありがとうございます」とお礼を言われて。一目見たときから、ほかの女性とは雰囲気が違うなって思ったんですよね。バイクがなかったら妻と出会えていないですね。

写真を撮るのは、今も大好きです

今も写真を撮ることが趣味で、スマートフォンのカメラで撮影しています。もうすぐ90歳になるので、健康のためによく歩いているんですが、そのときに景色を撮影しています。撮った写真はGoogleにアップしていて、今までで5万枚以上あげています。たくさんの方に見ていただけているみたいで、嬉しいです。
今回お渡しした写真もたくさんの方に見ていただきたいですね。

写真提供:中山 晃 様


 

大切な思い出がつまった鹿浜

画像:大切な思い出がつまった鹿浜

 

上京当時の思い出

生まれは群馬なのですが、昭和25年4月に新制高校を卒業した当時、まだ終戦後間もないこともあって地方に就職先がありませんでした。それで、鹿浜の知人を頼って上京しました。
当時の鹿浜は田んぼや畑が多く、和やかな農村という感じ。用水路には小魚やアメリカザリガニがたくさんいて、それらが子どもたちの遊び相手になっていたものです。

カメラとの出会い

上京してもすぐに仕事にありつけたわけではなく、昭和25年11月になってようやく足立区の化学会社に就職することができました。顔料という色の素を作る会社です。その会社の同僚にカメラ好きの者がおりまして、乏しい給料から月賦でカメラを買い、同僚と一緒に焼付け機も買って、彼の住む寮で作業したのを覚えています。渡し舟の写真はこの頃のもので、自分で焼付けしました。当時は鹿浜から対岸の新田に行く勤め人が主に利用していたようです。

こだわりのカメラで撮った写真はほかにも

カメラは10台くらい、8mmカメラや映写機などもありますが、かなり金をかけた割に傑作がありません(笑)。今年6月で91歳になりますので、これだけ長い間この世に籍をおくと、古いネガもかなりの数を保管しているのですが、日付が分からぬものが多く、整理に難儀しているところです。もしかしたらこの中に貴重な傑作写真が眠っているかもしれませんね。

 

写真提供:小出 武文 様


 

晩年までの写真に夢中だった夫の父

画像:晩年までの写真に夢中だった夫の父

 

写真好きの夫の父を思い出して

私自身は結婚を機に足立区に来たので、昔の足立区のことはあまり詳しくありません。しかし、広報紙の今回の募集記事を読んで、義父(夫の父親)が昔の足立区の写真をたくさん持っていたことを思い出しました。よく写真を撮りに行ったり、買ったりしていた人だったので昔の写真は何枚も家に残っていますが、このお化け煙突の写真は額縁に入れてずっと玄関に飾ってあったんです。本人が特に気に入っていた写真だったんじゃないかなと思います。

昭和時代。北千住

今に残した写真を皆さんにも

私は義父が亡くなるまで一緒に住んでいましたが、あの人はどんなに歳をとっても老人会で出かける機会があると写真を撮り続けていました。そんな写真好きの義父が持っていた昔の写真をぜひ皆さんに見ていただいて、昔から住んでいる方には懐かしんで、若い世代の方には「昔の足立区はこうだったんだ」と楽しんでいただけたら嬉しいですね。

 

写真提供:小林 京子 様


 

写真を見てよみがえる若かりし日の記憶

画像:写真を見てよみがえる若かりし日の記憶

 

兄から借りたカメラでなんとなく

私が20歳くらいのときでした。兄が仕事の関係でカメラを使っていたんですが、そのカメラを一時期貸してくれたんです。せっかく借りたんだからいろいろ撮ってみようと思って、カメラを持って町屋側の河川敷をふらっと散歩していたら、ふと千住にあったお化け煙突が目に入ってきて。そして撮ったのがこの写真です。カメラに慣れないながらも立つ位置を変えたりしながら工夫して撮りました。

いったいどこから見れば…

この写真を撮ったときは荒川区に住んでいて、洋服を作る会社に住み込みで働いていました。足立区のことはほとんど何も知らなかったんですけど、「お化け煙突」のことは知っていました。角度によって見える本数が違う面白い煙突だって。「全部の煙突がうまく重なって、太い一本に見えるときもある」なんていう人もいたので、いろんな角度から見てきたけど、私は一本に見えたことはなかったですね(笑)

写真で再会、かの日の同僚

今回広報紙で写真募集の記事を見て、役に立てるかな、と思って久々にアルバムを引っ張り出しました。当時荒川区で一緒に働いた仲間たちの写真もたくさんあって、あのころは月に二日くらいしか休めないくらい忙しい日々だったなあ、と懐かしい気分になりました。

 

写真提供:角田 昌平 様


 

夫婦ともに思い出深い写真

画像:夫婦ともに思い出深い写真

 

呉服店を営む主人の両親

写真の左右にいるのが主人の両親です。西新井大師近くで呉服店を営業していました。現在、ここには人形焼きのお店ができています。
主人が生まれる前の写真で、撮影時期や写っている子どもなど、分からないことが多くて。ただ、戦争が始まるころには売る品物がなくなり、そのころにはお店は畳んでいたそうです。なので、昭和初期に撮影されたんだと思います。

幼なじみで結婚

私はこの家の2~3軒隣のところに住んでいました。小さいころから親同士も知り合いで、主人の母からは「悪いようにしないから、嫁ぎに来ない?」なんて言われて、結婚しちゃいました(笑)

受け継がれてきた写真

 主人の妹が掃除していて見つけたみたいです。この写真を見て、主人は懐かしんでいましたね。私も近くに住んでいたので当時を思い出します。
そんな主人も昨年12月に亡くなりました。この写真を見て、区民の方々にも懐かしんでいただけたら嬉しいです。

写真提供:小泉 信子 様


 

暮らしていたまちの全部が遊び場でした

画像:暮らしていたまちの全部が遊び場でした

 

母との思い出の写真

写真はいつも母が撮ってくれていました。本格的なカメラではなく、インスタントカメラでしたけど。母は、銀座にあった会社で、今でいうキャリアウーマンをしていて、結婚をして家庭に入りました。当時女性がそういう働き方をするのは珍しく、それだけ活動的な女性だったのだと思います。

画像:昭和51年頃、七五三の写真

友達の家もお店も道路も、全部が遊び場

子どものころは、道路や空き地、商店街の中で遊ぶことが多かったです。小学校のクラスメートの半分くらいは、商店街や近所の商人の子どもで、友達とのおにごっこやかくれんぼが始まると、商店街の雑貨屋の中を通り抜けたり、友達の家に「おじゃまします!」って感じで勝手に入っていったりしていました。皆(家族含めて)顔見知りでしたね。当時は、商店街や近所の家がまるごと子どもの遊び場でした。

今では想像もできない足立区の風景

母の子どものころは、五反野駅前の通りはどぶ川で、そこを飛び越えて遊んでいたそうです。当時の足立区は周りに何もなくて、家が一軒しかないから「一ツ家」っていう地名がついたと母から聞いたことがあります。今では想像もできませんけど。そのころの写真も残っていたら良かったですね。

 

写真提供:柳川 由紀 様


 

今はもう見ることのできない景色
画像:綾瀬川にかかる嘉兵衛橋

 

嘉兵衛橋の痕跡

今の新加平橋南側に架かっていた嘉兵衛橋。
昭和39年の東京オリンピックに向け、環状七号線の敷設工事が進められ、綾瀬川には新加平橋が架けられました。嘉兵衛橋はその役目を終え、橋のあった場所はコンクリートの高い堤防となりました。写真の奥に写っているお店もなくなってしまいましたが、現在、堤防にはプレートが埋め込まれており、かつてここに嘉兵衛橋が存在していた事を物語っています。

昔の荷物を整理してみたら

我が家は下妻街道(花畑街道)沿いで、大正時代からたばこ屋を営んでおりましたが、オリンピックの環七敷設工事で、移転となりました。
昔の荷物の中にたばこ小売店宛に出された「オリンピアス」販売促進通知がありました。たばこのイメージも今と昔とでは違いますから、今で言うところの記念切手のような物でしょうか。当時の人々が多方面からオリンピックを盛り上げようとしていたことがうかがわれます。

画像:東京オリンピック時の通知

写真撮影:西野 喜八 様


 

「お化け煙突」に見守られて
画像:雪に覆われた冬の日

 

雪に覆われた冬の日

千住緑町の自宅近くで、当時は高価な6x6判のカメラを使って父が撮影してくれた写真です。おぼろげな記憶しか残っていませんが、この時は都内で珍しく大雪が降ったので、記録としてお化け煙突を背景に撮影したのだと思います。撮影当時は、空襲で焼失した軍需工場跡などの焼け野原が、まだ残っていました。

日常の景色だった「お化け煙突」

お化け煙突は昔から有名でしたが、自宅のすぐそばにあり、近所からでは見える本数はいつも同じでしたので、私にとっては特別な存在ではありませんでした。それでも、外出した帰りの電車の車窓から、本数が変わる煙突を見たときには「家に帰ってきた」と実感したものです。

たくましさを身につけた子ども時代

昭和20年生まれの私が子どもの頃は、メンコやベーゴマ、五寸クギを地面に勢いよく投げ刺して他の釘を弾き飛ばす「釘刺し」が遊びの定番でした。近所の駄菓子屋にもよく通いましたが、当時の定番メニューは「ぼった焼き」。4人が鉄板を囲んで焼き始めると、自分の生地がどこまでかで常に言い争いになったことも、今となっては良い思い出です。

画像:たくましさを身につけた子ども時代

写真提供:坂巻亨 様


 

 

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「昭和のあだち写真展-写真に刻まれた、エピソードとともに-」パネル展の様子

 

あだちの人々

 

現場監督の祖父 だからこその表情

画像:現場監督の祖父 だからこその表情

 

父から受け継ぐ 祖父の姿

この写真は国道4号工事のとき、現場の人々で集合して撮ったもの。前列の左から5番目の伴天を着て座っている人が、私の祖父(浅香久次郎)です。父から聞いた話だと、祖父はこの工事の現場監督だったらしく、ちょっと偉そうな顔しているんですよ(笑)

一人で晩酌する様子が目に焼きついている

祖父との記憶は小学生のころだから、あまり覚えていなくて。私も兄弟も祖父に怒られたことはなかったので、厳格な人ではなかったと思います。ただ、遊んでもらった覚えもないですけどね(父親とも遊んだことはないですが)。
記憶にちゃんとあることといえば、左官業だった祖父がいつも午後5時に帰ってきて、先に一人で晩酌していたことです。祖父は昔ながらの人で、「一家の主」という意識があるから、絶対に私たち家族と夕食をとることはありませんでしたね。だから祖父と食事しないことが当たり前すぎて、一緒に食べたいという気持ちも特になかったですね。

昔の足立区を知らない人にぜひ見てほしい

あだち広報で昔の写真を探しているという記事を見て、写真を引っ張り出してきました。国道4号工事の写真のほか、母親(淺香ツヤ子)が近所の友だちと田植えをしている様子だったり、父親(淺香龍一)が警備艇の船長を務めたときの船だったり、たくさんの写真がありました。国道4号の写真は特に今の足立区からは想像つかないですよね。のどかな風景が広がっていた時代が懐かしいですね。

画像:荒川警戒中の東京水上警察署警備艇「ふじ」、画像:友だちと田植え

 

写真提供:浅香 壽夫 様


 

365日休みなく、牛たちを世話した

画像:365日休みなく、牛たちを世話した

 

明治時代から続いた牧場

我が家の「鈴木牧場」は、明治時代に始まり、元々は現在の新宿区 都庁付近にありましたが、淀橋浄水場建設のため、中野坂上に移転しました。その後、昭和5年に山手通り(環状6号線)建設のため立ち退きになり、足立区扇に引っ越してきました。父が5歳のときだったそうです。

朝から晩まで、1年中休みのない仕事

牧場の生活は、1日2回の搾乳とエサやりが日課です。毎日朝6時ごろから、休憩を挟んで夜10時ごろまで仕事をしていました。365日休みなしの商売です。
搾った牛乳はタンクローリー車が取りに来て、森永乳業の東大和工場に運んでもらっていました。
都市型酪農は粕酪農と言って、ビール粕・おから・あんこ粕などが牛の主食で、牧草・藁が副食になっていました。

珍しさから、子どもたちが見に来ることも

昭和30年代の最盛期には牛が90頭、従業員も10人ほどいたそうです。昭和60年に環境問題などで廃業したときには、牛は40頭ほどでした。
印象深い出来事といえば、近隣の小学生が校外学習で見学に来たこと。牧場という仕事が珍しかったこともあり、子どもたちも間近で見る牛の大きさに驚いていましたね。

 

写真提供:鈴木 一男 様


 

写真越しに見た、生前の父の記憶。

画像:写真越しに見た、生前の父の記憶。

 

押し入れから引っ張り出した思い出

「昔の写真をお貸しください!」という記事をあだち広報で見かけて、「そういえばアルバムしまってあったよな」と妻と話し、押し入れから引っ張り出しました。写真は昭和初期の荒川。背景のボートが時代を感じさせます。撮影者は不明で、写っているのは左から私の父、父の妹、親戚(画家)です。

切ってつなぎ合わせたパノラマ

趣味が写真だった父は、とにかく色々な写真を撮っていました。今では当たり前に撮影できるパノラマ写真にも挑戦していましたね。パノラマ写真とは言っても、細く切った新聞紙の上に切った写真をのりで貼り付けていく、古典的なものなんですけどね(笑)

パノラマ写真。昭和30年産業振興館の屋上で撮影

もう一度、家族の写真を人の目に

少し前までは親戚で集まったときなんか必ずアルバムを見せ合っていたものですが、今はコロナの影響もあって、そういった機会はすっかり失われてしまっています。なので、こうやって家族の写真を区民の方に見てもらえると、すごく嬉しいです。

 

写真提供:若田 様


 

子どもたちの笑い声が響き渡る

画像:子どもたちの笑い声が響き渡る

 

22歳で上京し、カメラを始めた

三宅島から15歳のときに上京し、足立区の本木町へ。その後、伊興町、西保木間と引っ越しました。仕事は、病院の台所当番として、住み込みで働いていました。
20歳ころから写真を撮るようになって、近所の風景などをカメラに収めていました。

画像:お世話になった住み込み先の家族と撮影

近所の子どもたちで、賑わっていた

この写真は、近所の子の家で遊ぶ子どもたちを撮影しました。子どもたちと仲が良くて、「テルミちゃん」と呼ばれていましたね。
桶で何の遊びをしているかは分からないけど、船でも浮かして遊んでいたんじゃないかな。当時はよく近所の子の家や路地で、皆で遊んでいて賑やかだったんです。家もお互い自由に行き来してましたしね。

子どもたちの笑顔に惹きつけられて

本当はこの写真をお貸しする予定はなかったんです。アルバムでほかの写真を探していたらたまたま目に留まって。子どもたち皆、良い笑顔なんですよね。自分で撮影したものですが、我ながら上手に撮影できたなと思っています(笑)この子どもたちの中に、いまも知り合いの方もいるので、今回の展示の件を教えてあげようと思っています。きっと喜んでくれると思います。

 

写真提供:浅沼 テルミ 様


 

 

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「昭和のあだち写真展-写真に刻まれた、エピソードとともに-」パネル展の様子

 

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【地域図書館 巡回展示】区制90周年記念企画「昭和のあだち写真展-写真に刻まれた、エピソードとともに-」

<終了しました>
【地域図書館 巡回展示】区制90周年記念企画「昭和のあだち写真展-写真に刻まれた、エピソードとともに-」パネル展

「昭和時代の足立区を振り返る」特集として、区民の方々からお貸しいただいた写真を使用して区内の各図書館で写真展を開催しました。

 

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