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公開日:2022年7月8日 更新日:2022年7月8日

区民の声と50年~世論調査で足立区を振り返る

世論調査で振り返る足立区の50年

 

区民の声と50年~世論調査で足立区を振り返る

 

令和4年7月10日号のあだち広報では、足立区で50年続く「世論調査」を特集しました。本ページでは、紙面のインタビューでは載せきれなかったエピソードをご紹介します。

 

 

 

1.下水道課に6年間在籍 都市建設部長 犬童 尚さん

第1回世論調査(昭和47年)では「これからの区の発展のために、もっとも力を入れてほしいこと」を聞いており、1位だった「下水道の整備」。その後、第16回世論調査(昭和62年)まで上位3位以内に入っており、強い区民要望があったことがうかがえます。下水道課に6年間在籍していた現都市建設部長の犬童 尚(いぬどうたかし)さんに、当時の整備状況や今後の課題を伺いました。

下水道整備は区の花形事業

下水道整備は区の花形事業

私が下水道課に在籍していた期間は平成2年から7年までの6年間。ずっと工事監督をしていました。当時私は30歳前後で、職員としては東部工事事務所に次ぐ2つめの部署でした。配属された係は「工事第一係」で、ほかには設計、調整、工事第二係がありました。下水道課は60人ほどの大規模な部署でしたね。
当時の下水道整備率は90%ほどでしたが、そんなことは意識せず、「やれるだけやる」という意識で仕事をしていました。というのも、当時の下水道整備といえば区の土木事業の中でもメイン事業だったんです。元々は都の事業でしたが、東京都からお金をもらって区が代わりにやっていた、受託事業でした。予算も大きくとっていました。例えば平成7年は調査費など含めて100億円ぐらい。下水道は完成したら地中に潜るので目立たない。緑道を作ったりしたほうが見栄えがよいのでそちらに脚光が当たりがちですが、下水道整備はほかの事業とは規模感が違いましたね。

 

白く剥げたヘルメットは下水道課職員の勲章

私は現場監督だったので整備中の現場を見回っていましたが、1日4~5カ所ほど回ることもありました。昼間は基本的に外に出ていて、夕方返ってきてから書類整理を始めるので、夜まで仕事することも少なくなかったです。夜間や週末も工事があるので、確認に行っていました。なので、思い返してみると下水道課は20~30代の若くて馬力のある職員が多かったです。車で向かうときは、他の職員の現場を一緒に回ることもありました。
下水道整備は、完成前の検査が極めて重要です。なぜなら、下水道は地中に埋まりますが、その後道路になったあとに不備が見つかると、大変なことになるからです。最終検査で管がたるんだりしていて、入れ替えたこともありました。たるむと水が溜まってしまいますから。
白く剥げたヘルメットは下水道課職員の勲章
直径60cmを超える管(現在は80cm)については、職員が中に入って確認しますが、これが結構狭い。下水道課の職員はヘルメットの上の部分が剥げた真っ白になっていました。キャリーが付いた台を置いて進むなど色々な方法を試しましたが、私はほふく前進で点検していました。いまはカメラで確認できたりしますが、当時はアナログ。ヘッドライトを付けて目視で確認していました。

 

苦情より喜びの声のほうが大きかった

整備を行う上で、大きい道路は面で進めていきます。複数の町会にまたがるような規模で整備を進めていました。一体全部が工事現場、ということも珍しくなかった。一本だけ入れるのではなく、何十本も一気に下水道管を入れます。なので、どこに行っても工事をやっているという状況で、「道が塞がれていて、家に帰れないんだけど」といった苦情もありました。ほかにも音が大きいので眠れない、振動が大きいなどの苦情もありました。今なら違う工法がありますが、当時は力ずく。元々水路が入っているコンクリートを壊すから、簡単には壊れずすごい音が鳴っていました。ただ、当時は下水道整備を区全体で大きく押し進めていた時期なので、苦情より喜びの声のほうが大きかったように感じます。
苦労したことは、足立区は水位が高いから、掘ると直ぐに水が出てくることです。
矢板を打って水が出ないように進めていったり、ときには地盤改良をしたりしてどうにか水が出ないように進めていきました。
また、矢板を抜くときに、周辺家屋に影響が出ないように気を使いながら工事するのが難しかったですね。

 

下水道によって、まちが変わった

区民が下水道を望んでいた大きな理由は、トイレです。水洗トイレを望んでいました。自分の在籍していたころは浄化槽を通して排出していたので、いわゆる「ぼっとん便所」でバキュームカーが街を回っていたような時代ではありません。
なのでそんなに困っていたわけではないと思いますが、浄化槽の管理をしなくて良くなるので、水洗トイレになった恩恵はありましたね。
しかし、まちとしてそれ以上に大きな恩恵は、水害に対する効果。昔は大雨や台風によって水があふれたら、なかなか水が引きませんでしたが、下水道が整備されてからすぐ引くようになりました。道路冠水のような水害は目に見えてなくなりました。相当効果がありました。
まち並みの変化としては、以前は道路の脇に水路がありましたが、それが無くなって全てが道路や歩道になったので、道路としての機能は良くなりました。
下水道が整備される前は、水路に生活用水を流していたので、衛生的にあまり良いとは言えませんでした。自分が居たころは、水路にほぼ蓋がされていた状況で、大体道路の横には水路がありました。

 

経験を活かし、より安全で快適なあだちへ

犬童さん:経験を活かし、より安全で快適なあだちへ

下水道課時代は、良い経験になったと思っています。
下水道局の、下水一筋30年の大ベテラン職員に色々教えてもらったり、現場の細かいところまで自分の目でみることができたので。それは都市建設部長になった今でも役に立っています。現場に行かなくても、現場のことが大体分かるから。
現在、区の整備率は概成100%です。今後の課題は、今まで築いてきたものを維持していくこと。整備が早かった千住地域では、すでに寿命を迎えている下水道管も多く、東京都による入れ替え工事がすでに始まっています。今、私は都市整備全般を管理監督する立場になりましたが、これまでの経験を活かして、都市建設部の職場をまとめて、足立区をより安全で快適なまちにしていきたいです。

 

 

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2.足立区に住んで60年以上 有野 芳邦さん・昭子さん

今年90歳を迎えた芳邦さんに、昭和30年代以降の足立区の移り変わりを奥様と共にお話しいただきました。

足立区に住んで60年以上 有野 芳邦さん・昭子さん

降りる駅を間違えたと思うほど何もなかった西新井駅

足立区に引っ越してきたのは昭和30年代のはじめです。その前は、杉並区に住んでいました。引っ越してきたきっかけは当時、代々木上原駅の近くで布団屋さんをやっていた叔父の「これから足立区は良くなっていく。西新井という駅に商店街があるから様子を見てきなさい」という言葉がきっかけです。
それで西新井駅に降り立ちましたが、びっくりしました。浅草から電車に乗ってきましたが、どんどん田んぼが増えてきて「駅を間違えたんじゃないの」って。風で砂ぼこりもボーボー立っていました。駅を降りたら何もなくて、自転車だけぽつんとありました。
当時の西新井駅は西口しかなく、東口ができたのは引っ越したあとの出来事です。
そんな状況でしたので、これのどこに商店街があるんだと半信半疑でしたが、日清紡関を壁沿いに行くと、商店街があった。それが足立区に住み始めた第一歩です。

 

布団より蚊帳が売れた時代

関原商店街の真ん中あたりに布団屋を出しました。昭和32年の頃です。叔父の知り合いの布団屋さんが大阪に帰るので、そのお店を譲り受けました。お店を始めて印象的だったのは、当時すごく蚊帳が売れたことです。布団より売れました。下水道がまだ整備されていなかったからでしょうね、当時はものすごく蚊が多く、蚊帳の中に布団を敷かないと入ってきて大変な時代でした。寝具のお供に蚊帳が欠かせなかったんですね。興野から買いに来る人もいて、多いときは数十張り売れる日もありました。その後、下水道が整備されてから、蚊はぴたっと出てこなくなりましたね。旧西新井橋(昭和36年撮影)
住んでいた当時の街並みはというと、まだまだのどかな田舎でした。道路を歩くにも本格的な舗装はされておらず、砂利道です。土の上に砂利をまいていました。あとは、西新井橋は木道でしたね。ところどころ穴が開いていたので、下が見えるようになっていて、とても怖かったです。半分くらいの人は下駄をはいていました。上は洋服でしたが(笑)

 

 

 

 

雨が降るたび、家の前が池に

買い物は商店街でしていて、関原通りのほうか、竹ノ塚のあたりにも行っていました。皆が商店街で買い物をしていましたから、商店街にあった自分たちの布団屋も大いに繁盛しました。商店街では布団屋のお得意様とよく会っていて、苗字は有野ですが、屋号の「山一さん!」と呼ばれてました。それくらい関原にはお客さんがいてくれたということですね。今の住居がある栗原には昭和36年に引っ越してきましたが、周りには、まだ田んぼが広がっていました。当時は雨が降るたびに水が溜まって、大変でした。腰まで届くほどの浸水で、辺り一帯は池になっていました。床上浸水ということですから、濡れた布団は外で山積みになる。かわいそうだなと思ったら、そうじゃない。当時は新しい布団を東京都が無償で支給していたようです。だから雨でびしょびしょになったら皆喜んでいました。

 

まちには活気があふれていた

当時の都営住宅の様子
まちの変化としては、環状七号線ができて、都営住宅が建つことによって、目に見えて人が増えました。小さい道ではなく、大きな道で資材を運ぶことができるようになったのも関係したのでしょうね。平屋だった都営住宅も2階建てに変わっていきました。特に昭和30年代後半から、街はかなり変わったように感じます。人が増えて、大きなスーパーもできてきた。買い物も、近くで済むようになりました。
布団だけでは昭和37年ごろには頭打ちになって、儲からなくなりました。色々な場所にお店を出し始めたんです。「山一ストア」という、主に洋品を扱うスーパーを出店して、肌着関係が特に売れました。時代に恵まれて、何を出してもよく売れました。自分だけの力ではなく、景気の流れに偶然乗ることができたんだと思います。当時は高度経済成長期で経済が回っていて、日本がぐんぐん上がっていた時期ですからね。まちも活気があふれていましたよ。
そのころに山一不動産もスタートしました。本格的に住宅を扱い出したのは、昭和40年ごろからです。山一ストアの社員も不動産のほうに来てもらったりして、規模がどんどん大きくなっていきました。それも時代が良かったからですね。山一不動産は、今は長男が継いでいます。

 

足立の皆に支えられて、ここまで来た

足立区には随分とお世話になりました。当初、蚊帳が売れるのは嬉しいけど、「エラいところに来ちゃったなぁ」というのが正直な感想でした。でも下水道の整備が進むにつれて蚊を見なくなって、トイレも汲み取りから水洗に変わった。道路も舗装されて、都営住宅が次々と建って、人口も目に見えて増えてきた。思っていた以上のスピードで、見る間に住みやすい街に変化していったんですね。
気に入っているのはまちだけではありません。足立の人は人間性がいいですね、人情があります。他の場所から来たのに、皆が助けてくれました。周りの人が気にかけてくれて、「幼稚園はどこがいい」とか色々と教えてくれました。周りのいい人に、いい時代に恵まれました。足立区じゃなかったら、絶対にこうはならなかったと思います。

 

 

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3.第51回目の世論調査を8月に実施します

 

今回からオンライン回答がスタート!

【世論調査を8月に実施】

  • 区内在住の18歳以上の方3,000人(無作為抽出)が対象
  • 7月下旬に協力依頼のハガキ、8月中旬に調査書類を送付
  • 紙かオンライン、いずれかの回答方法を選択できます

 

お手元に調査書類が届いた方は、ぜひ調査にご協力ください!

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