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公開日:2026年9月7日 更新日:2026年9月7日
今年で開創1200年を迎えた西新井大師。
境内には、区指定・登録文化財などが大切にのこされ、区の貴重な歴史的・文化的資源として、地域の交流や賑(にぎ)わいの創出につながっています。本特集では、歴史を物語る数々のエピソードを紹介します。
※内容は区調べ。諸説ある場合があります。名称など一部略称です。地図は簡略図。イラストはイメージ。
西新井大師とは?
正式名称を「五智山遍照院總持寺(ごちさんへんじょういんそうじじ)」といい、奈良県にある「長谷寺(はせでら)」を総本山とする「真言宗豊山(ぶざん)派」の寺院です。本尊は「十一面観世音菩薩(じゅういちめんかんぜおんぼさつ)」「弘法大師(こうぼうだいし)」で、大本堂に祀(まつ)られています。
【訪れるときの注意事項】
ルール・マナーを守ってください/駐車場はありません。公共交通機関をご利用ください




弘法大師( 空海[くうかい])が四国行脚(あんぎゃ)をした際の姿を現したもので、昭和9(1934)年に建てられました。
西新井大師のはじまり
天長3(826)年(平安時代)、当時の西新井周辺は、日照りによる水不足で作物は枯れ、火事が多く、疫病が流行るなど、厄災に見舞われていました。そこに、真言宗の開祖として知られ、諸国を巡っていた弘法大師が訪れました。そのときに、この地で十一面観世音菩薩からお告げを受け、「十一面観世音菩薩像」を刻み、祈ったことで厄災が治まったと伝えられています。村人はその像を祀り、弘法大師が祈った地に一堂を建てました。これが、西新井大師のはじまりです。
「弘法大師立像」の近くには、「稚児大師尊像(ちごだいしそんぞう)」があります。弘法大師は幼いころから「神童」と呼ばれるほど賢かったと伝えられているため、弘法大師が幼いころの姿を現した像が「子育て」「学業成就」を願う参拝先として親しまれています。

「西新井」の地名の由来になったと伝えられている井戸です。※現在は使用不可
「西新井」地名の由来
弘法大師は、「十一面観世音菩薩像」を刻んだ際の余った木材を使って自身の像を刻み、涸(か)れ井戸に投じました。その井戸から清水が湧き出たと伝えられています。
新たに水が湧き出た井戸であることから「新井」、そして、この井戸が村人たちが建てた堂の西側にあったことから、この地が「西新井」と呼ばれるようになったと伝えられています。

加持の井戸の水(加持水[かじすい])は、江戸時代から明治時代にかけて、良質な水として知られていました。江戸下町では、海水の影響を受けた井戸水などが多く良質な水に恵まれませんでした。そのため、加持水は、江戸の人々に重宝され、名水として人気を集めました。


西新井大師は、「川崎大師 平間寺(へいけんじ) [神奈川県川崎市]」と並び、 江戸の厄除(やくよ)けの両大師とされているほか、「火伏せの大師」としても知られています。
度重なる火災と大本堂
大本堂は、文安元(1444)年、文安3(1446)年、文亀3(1503)年の3度にわたって火災に見舞われたにもかかわらず、いずれのときも本尊は難を逃れたことから、「火伏せの大師」といわれるようになりました。
また、「東京大空襲では、本堂の屋根に焼夷弾(しょういだん)が落ちたが、屋根を滑り壁面から離れたところに落ちて燃え尽き、本堂は無事だった」「昭和41(1966)年の火災では、避難させられなかった寺宝が、消火活動の際に水を含んだ屋根と土壁によって火から守られ、奇跡的に焼失しなかった」といった、火にまつわるエピソードがのこっています。

江戸時代後期の建造物で、区内唯一の三間一戸の楼門*です。
正面の戸口の左右には仁王像が控え、上部には仏像を安置する「須弥壇(しゅみだん)」があり、建設当初は「五智如来(ごちにょらい)」が安置されていました。
平成30(2018)年に保存工事が完了し、元の位置から大本堂側へ約6m移動しました。
*...2階建てで、1階部分に屋根がついていないつくりの門



三匝堂は、一般に「栄螺堂(さざえどう)」とも呼ばれており、サザエの貝殻のように、らせん状にめぐらされた通路で一巡することができる建造物です。
西新井大師の三匝堂も、かつては外階段で3層まで上ることができました。
三匝堂の「匝」は「めぐる」という意味で、「堂内を3回めぐって3層に至る」ということから、その名がつけ られました。 現在、西新井大師の三匝堂の外階段は取り外され ています。 ※堂内立ち入り不可

ほかの観音と同様に、この堂に祀られている如意輪観音にも性別はないものの、女性的な優しい顔をしています。「女性の諸願成就」を願う参拝先として信仰を集め、多くの女性が訪れました。
江戸時代、江戸から日帰りできる距離に西新井大師があったため、女性が多く訪れたことから「女の西新井大師」といわれていました。対して、男性が多く訪れたことから、男性の厄除けは「川崎大師」といわれていました。


祀られている稲荷神は、五穀豊穣(ごこくほうじょう)の神として信仰され、西新井大師の守り神とされています。
五穀豊穣と商売繁盛によって富を得ることで出世につながるという考えから、「出世」を願って参拝する方もいます。



江戸時代後期の作品で、鬼を厄災に見立て、その鬼を弘法大師が法力で調伏する様子が描かれています。
北斎の晩年期の作品とされ、生涯で描いた中で最も大きな作品の一つともいわれています( 画面は縦約150cm×横約240cm)。北斎肉筆の大迫力の弘法大師修法図は、毎年10月(8年は開催なし)に開催する「北斎会(ほくさいえ) 」で公開されます。
北斎は画号が多いことでも知られ、生涯で30以上用いました。晩年期には、「画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)」というユニークな画号を用いることもありました。

慶応4(1868)年に描かれた浮世絵です。
当時の西新井大師門前東側の石橋付近から、奥に見える西新井大師の本堂が描かれています。


「10番」の鐘楼堂にある鐘は、第二次世界大戦中に軍へ拠出されました。ところが、アメリカで発見され、カリフォルニア州のパサデナ市から昭和30(1955)年に日米親善の鐘として西新井大師に戻り、現在に至ります。鐘に銘が入っていたため、持ち主が特定できたといわれています。
当時、本来の鐘の返還は望めないと考え、新調したものが「11番」の鐘で、今も西新井大師の書院の横にひっそりと置かれています。

10番の鐘

11番の鐘

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開創1200年記念の地域行事 |
主催:西新井大師開創千二百年記念事業実行委員会
主催:西新井大師開創1200 年記念かりん祭実行委員会

【お問い合わせ】産業振興課 商業振興係(03-3880-5865)
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