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公開日:2022年8月8日 更新日:2022年8月8日

区制90周年記念企画「語り継ぐ-あだちの戦争-」

【区制90周年記念企画】 語り継ぐ-あだちの戦争-戦争体験者のインタビュー

終戦から77年。戦争の記憶は年々失われつつあります。
本ページでは、「あだち広報8月10日号」紙面のインタビューでは載せきれなかった、区内や疎開の地で戦争を体験した4人の方々のお話をご紹介します。

 

 

空襲後の千住南部の焼け野原(若田正治氏 撮影)
空襲後の千住南部の焼け野原(若田正治氏 撮影)

 

 

 

相川謹之助さん・長谷川浩平さん

相川さんは昭和11(1936)年10月生まれの現在85歳、長谷川さんは昭和10(1935)年2月生まれの現在87歳。お二人が現在もお住まいになっている千住仲町は、昭和20年4月の空襲で大きな被害を受けました。生粋の千住っ子であるお二人に戦時下の街の様子や生々しい空襲体験を語っていただきました。

 

-今でも耳に残る 警報音と爆撃機の飛行音-

足立区(以下、「区」):
戦争が始まったときの記憶はありますか?

相川謹之助さん
相川:
私は新聞で戦争が始まったことを知りました。当時はまだ幼かったのですが、アメリカとの戦争だという認識はありました。家の敷地にお稲荷さんがあり、その前で「敵をやっつけてやろう」と木剣を振っていたのを覚えています。

長谷川浩平さん

長谷川:
戦争が始まる前から、お寺の境内などで戦争ごっこばかりしていました。じゃんけんで負けた方がアメリカ兵、勝った方が日本兵です。日本兵は必ず勝たなければなりませんでした。
区:
最初の空襲は覚えていますか?
相川:
昭和17年4月だったと思います。昼ごろに友だちの家に遊びに行くと、食事中なので待っていてということだったので、縁側で待っていました。すると、突然飛行機が飛んできたんです。結構大きく見えたので、「この飛行機は何だろう?」と思っていたら、その後にものすごい音が聞こえました。
長谷川:
そのときの空襲では、三河島の辺りの被害が大きかったようです。突然来たので、警報はありませんでした。全くの無警戒だったのかもしれません。
区:
そのときの気持ちを教えてください。
相川:
初めての空襲のときはまだ幼かったので、怖さは感じませんでした。
長谷川:
三河島の辺りが空襲の被害にあったということは聞きましたが、うちの方は大丈夫だろうという楽観的な気持ちでいました。大して警戒はしていませんでしたね。
その後、空襲に備えて、旧日光街道沿いの空き地に大きな防空壕が造られました。通行人でも近所の方でも誰でも逃げ込める、立派なものでした。私の家の防空壕は小さかったので、空襲警報があると、その防空壕に逃げ込んでいました。
区:
その後、空襲が激しくなっていったのですね?
相川:
昭和19年の秋ごろから20年にかけて空襲が酷くなってきました。B29の基地が日本の近くにできてから爆撃の回数が多くなってきたんです。警戒警報や空襲警報は昼でも夜でも出ていました。私の家は警察署のすぐそばにあるので、警察署の上にある拡声器を通じて警報音を聴いていました。サイレンの音が長いと警戒警報、サイレンの音が短く連続して鳴ると空襲警報でした。空襲警報に切り替わる前の警戒警報の段階で防空壕に逃げ込む必要があります。冬の日の防空壕はものすごく寒かったのを覚えています。
長谷川:
警報の音は本当に嫌でした。寝ていても飛び起きましたから。B29の音も、なんとも嫌な音でした。
相川:
ときどき、昔の映像でB29が飛行する様子が流れますが、あの飛行機の爆音を聞くと空襲を思い出して嫌な気持ちになります。いろんなことを思い出してしまいますね。
長谷川:
警報が鳴ると昼も夜も関係ありません。防空壕に一直線でした。
相川:
B29が飛んでくると、探照灯で敵機を照らし、保木間の高射砲陣地から次々と砲撃をするのですが、全然届いていませんでした。
長谷川:
高射砲の弾の破片が瓦屋根にあたった音はよく覚えています。夜は暗くて見えませんでしたが、朝、庭を見ると破片が転がっていました。破片が人にあたると相当な怪我をしたと思います。
区:
防空壕のほかに、空襲に対する備えなどはしていたのですか?
相川:
戦争が始まると各自宅の前に防火用水を用意するようになりました。バケツで水を汲み出して火を消すためのものです。その消火訓練が大変でした。
長谷川:
隣組の中でその訓練に参加しないと仲間外れにされてしまいますので、男性が出征している家庭でも奥さんやお年寄りが参加していました。
相川:
一班20世帯くらいの組織だったと思います。この辺は住宅が密集していたので、道路で訓練をしました。道路にはしごを組んで建物に見立てて、上の方に水をかけて消火の訓練をするというものです。主婦の参加が多かったと記憶しています。何度も何度も訓練をしていました。当時の訓練写真の撮影日を見ると開戦前の日付になっているものもあります。日本は開戦前からこのような準備をしていたんです。関東防空大演習というのもあったと聞いています。写真に写っているのは女性ばかりでした。

区:
昭和20年3月10日の東京大空襲で覚えていることはありますか?
相川:
私は警報がなければ寝ることにしていたので、起こされずに朝まで寝ていました。翌朝起きると、旧日光街道を避難していく大勢の人がいました。旧日光街道沿いの人たちは通りに出て避難してきた人たちに水を出したり、おにぎりを出したりしていました。避難してくる人たちは皆、着の身着のままでした。裸足の人もいました。
長谷川:
東京大空襲では浅草や向島の辺りが攻撃されましたが、そのときは「こちらのほうはまだ大丈夫だろう」という楽観的な気持ちでいました。
区:
お二人が住む千住仲町も空襲の被害がありましたよね?
相川:
昭和20年4月の空襲で、千住仲町のうち、旧日光街道より西側は全て焼失してしまいました。東側も多くが焼失しましたが、奇跡的に我が家の周りは助かりました。近所に若い学生さんや女学生さんがいたので、そうした人たちが一生懸命消火をしてくれたという話を聞きました。また、近くに大きな欅の木があり、枝が相当茂っていたので、それが火除けになったのではないかと思っています。
長谷川:
大きなお屋敷などは焼夷弾が落ちても延焼しなかったので、今でも残っている古い家もあります。現在、「仲町の家(*1)」として利用されている日本家屋も、入口の屋根のひさしの内側は火をかぶって黒焦げになりましたが、表面に張ってある銅板のおかげで焼失を逃れたという話を大工さんから聞きました。

(*1)…現在、東京藝術大学と区などによるアートプロジェクトの拠点施設として活用されている

 

「仲町の家」の門。木材の一部が炭化している

「仲町の家」の門。木材の一部相川:
千住仲町の一部の地域では、防火地帯をつくるために「強制疎開」として建物を引き払っていました。警察署や国民学校のほか、区役所、消防署があったので、そちらに火が燃え移らないようにするためです。千住仲町だけでなく、道路の反対側の千住一丁目でも同じことをしていました。警察署の並びにはお店もありましたし、寄席もありましたが、全て取り壊しました。
また、私の家は母屋と貸家があったのですが、昭和20年の春ごろ、家族の人数が少なかったこともあり、空襲による類焼・延焼を防ぐ目的で空き地をつくる「建物の間引き疎開」で母屋を強制的に取り壊されました。取り壊しのときには近所の方々が集まってきて、瓦を落とし、柱にロープを結わい付けて建物を壊しました。近所の方々といっても若い人は皆、兵隊に取られてしまっていないので、家庭の主婦や地区の班の班長などが参加していました。取り壊された後は貸家に住み続けました。


区:
空襲は、やはり怖いものですか?
長谷川:
怖かったです。焼夷弾だって、爆弾だって、どこに落ちるかわかりませんから。
相川:
空襲で命拾いをしたという経験もあります。草加に親戚がおり、当時は草加と千住を行ったり来たりしていました。ある日、アメリカの爆撃機が通過するときに、草加の疎開先の家に焼夷弾を落としていったんです。家の屋根を突き破って、私が寝ている2・3メートル先に落ち、土間の臼に跳ね返りました。幸い不発弾だったらしく、家族が急いで水をかけてことなきを得ましたが、一歩間違えれば死んでいたところでした。そのときは、庭にも焼夷弾の不発弾が4・5本刺さっていました。一軒隣の家は直接当たってしまっていて、家がなくなっていました。その後、丸太などで囲って生活していました。

筒の中に油脂が入っており、火災を起こすことに特化した焼夷弾。大きさは直径約8cm、長さ約50cm
筒の中に油脂が入っており、火災を起こすことに特化した焼夷弾。大きさは直径約8cm、長さ約50cm

-活気があったまちにも戦争の影が-

区:
お二人は幼いころに面識はあったのですか?
長谷川:
相川さんとは子どものころの面識はありませんでした。通っていた国民学校が違いましたから。
相川:
長谷川さんは旧日光街道の西側で千寿第二国民学校(*2)、私は旧日光街道の東側で千寿国民学校(*3)と、学区が分かれていました。そのために交流が無かったんです。
長谷川:
子どもの世界にも縄張りがあって、別の学区の通りを歩くときには、いじめっ子がいないかキョロキョロしながら歩いたものです。鼻っ柱の強い子がたくさんいて、見かけない子が通ると「お前、どこの学校だ」「早く帰れ」などと言われました。そのかわり、自分たちの縄張りに別の学校の子どもがやってくると、やり返したりもしました。
また、千住の国民学校には、戦後までプールがありませんでしたので、隅田川で泳いでいました。当時は千住大橋に水上消防署があって、巡視艇から「川で泳いではいけない」と注意されました。それでも泳ぐところがないので泳いでいると署員に着ていた物全て取り上げられてしまうんです。後で水上消防署に行き、住所と名前を伝え、「もう二度としません」と約束して、着ていた物を返してもらうのです。何十年かしたら、その署員が私の店に買い物に来たので、そのときの話をしたこともありました。相手はびっくりしていましたね。

(*2)…現在の千寿小学校の位置にあった
(*3)…現在の東京藝術大学 千住キャンパスの位置にあった
 

 

区:
昔の千住仲町はどのような街だったのでしょうか?
長谷川:
当時の旧日光街道沿いは商店がずらりと並んでいました。どんなお店の隣にどんなお店があったかは今でも覚えています。区内だけでなく近隣からも人々がやってきて千住市場に野菜などを納め、手に入れたお金で買い物をして帰っていくというのが日常の姿でした。アメリカが知っていたのかどうかは分かりませんが、旧日光街道沿いの大部分の建物が空襲で焼かれてしまいました。それが昭和20年4月13日の空襲です。

昭和10年ごろの千住市場
昭和10年ごろの千住市場。人々でにぎわっていたが、空襲により焼失してしまった


区:
戦局が悪化してくると、街や人の様子は変わりましたか?
長谷川:
同級生が皆、お父さんやお母さんの田舎へ行ってしまうようになりました。私の親族は皆、東京出身で、地方に頼れる人がいなかったので、学童疎開に参加しました。クラスの中の生徒も日に日に少なくなっていきました。福島に引っ越した子もいましたし、千葉や埼玉の親類の所に行く子が多かったと記憶しています。
相川:
街並みや家並みは変わりませんでしたが、人がだんだん少なくなっていきました。旧日光街道沿いは江戸時代から商店が並んでいましたが、裏通り(ミリオン通り)にも色々な商店が揃っていました。旧日光街道沿いの商店は大店(規模の大きい商店)でしたので、庶民は利用せず、裏通りの商店を利用していました。今の人は知らないと思いますが、炭屋さんなどもありました。

-必死で逃げた 昭和20年4月13日-

区:
区内の被害が大きかった昭和20年4月13日の空襲で体験したことをお聞かせください。

相川:
地元にいた若い人たちから、アメリカのルーズベルト大統領がお亡くなりになったという話を聞いたときに「今晩あたりに空襲があるんじゃないか」と話していました。その日がまさに4月13日でした。警戒警報が鳴ったので防空壕に逃げ込みましたが、その防空壕は、勤労奉仕によってみんなで造った深さ1メートル以上のものでした。しばらくすると地区の班長さんがやってきて「ここは危ないから逃げろ!」と言われたので、千住新橋に向かって逃げました。途中で声をかけられて、「千寿国民学校が燃えているから、千住新橋ではなく、ほかへ逃げた方がいい」と言われたので一旦、自宅に戻ってきました。その間も焼夷弾が降ってきていたので、現在のミリオン通りを隅田川の方へ向かいました。ミリオン通り沿いは商店街でしたが、夜中ということもあって人が全然いませんでした。みんなそれぞれに逃げていたんだと思います。
炎は上がっていませんでしたが、空を見上げると焼夷弾がどんどん降ってくるのが見えました。焼夷弾が落ちてくるときには照明弾も落ちてくるので、空が明るかった記憶があります。逃げている途中、現在の千住仲町公園近くに爆弾が落ちて、すごい爆発音がしました。そのときは学校で習ったとおり、急いで耳と目をふさぎました。そこを通る度にあの日のことを思い出します。当時、千住関屋町には大きな原っぱがあったので、千住関屋を目指して逃げました。原っぱに着くと、そこにある土管に入って休んでいました。寝られはしませんでしたけどね。
夜が明けて静かになったので、元来た道を戻っていきました。自宅に近付くと家が残っていたので「家が焼けなくてよかった」と思いましたが、近付いて見ると家の後ろ側は焼け落ちていました。材料も何もないので、焼け跡からトタン板を拾って応急処置をして、住み続けました。一緒に逃げたのは私と父、姉の三人です。
焼夷弾の威力はすごかったです。水道管やトタン、ガス管は残りましたが、他には一切残りませんでした。相当な熱だったんだと思います。しかも、一発や二発の焼夷弾ではありませんでしたから。まさに焼け野原でした。

長谷川:
4月13日の空襲のときには自宅にいました。学童疎開に行ったのですが、栄養失調になってしまい、東京に戻ってきていたんです。でも、通う学校がないので、松戸にいる知り合いにお願いして松戸の学校に入れてもらい、毎日、常磐線で通っていました。
夜11時ごろだったと思いますが、警報が鳴り、焼夷弾が次々と落ちてきました。周りが明るくなるほどでしたので、「これは逃げた方がいい」ということになり、家族で逃げることにしました。私と母親、3月に産まれたばかりの弟と一緒に逃げるため、祖父がリヤカーと自転車とをつなごうとするんですが、慌てているからなかなかつながらなかったのを覚えています。やっとつながったので、母親が生まれたばかりの弟を抱いてリヤカーに乗り、祖父が自転車を引き、私が後ろから押して、現在の足立市場の方に向かいました。
昭和20年4月13日の空襲体験を話す長谷川さん空は真っ赤で昼のように明るかったです。翌日、江北の方へ逃げようと、墨堤通りを西新井橋の方へと向かいました。途中で千住仲町の自宅のそばを通ったのですが、周りはすべて焼き尽くされていました。西新井橋の上にも焼夷弾の燃え殻があったんですが、当時の私は向こうっ気が強かったので「こんちくしょう!」と焼夷弾の燃え殻を蹴っ飛ばしてやりました。川に落ちた焼夷弾を見たときには胸がすっきりする思いでした。
空襲は本当に怖かったです。いつ直撃を食ってしまうかわかりませんでしたから。防空頭巾を被ってはいましたが、大した足しにはならなかったと思います。
空襲の翌日から江北の知り合いの家に身を寄せ、それから1年半から2年くらいお世話になりました。松戸の学校へは通いきれなくなり、江北の国民学校に転校しました。江北では千住のような下町の言葉を話す人がいませんでしたので、江北の人が話す言葉を練習したりもしましたね。
5月25日の山の手空襲でも高射砲陣地からB29を砲撃しましたが、高いところを飛んでいるので弾が当たらずやきもきしていたのを覚えています。翌日学校へ行ったら、入谷の田んぼにB29が墜落したという話を聞いたので、学校から帰ってきて自転車に乗って、墜落現場を見に行きました。既に後片付けが終わっていましたが、兵隊さんに聞いたら「飛行機が田んぼにめり込んでいた」と言っていました。
自宅の焼け跡を見に行ったときには、蔵の中に焼夷弾が1本落ちていました。蔵は焼け落ちてしまいましたが、祖父が風呂敷に包んでしまってあった大刀と小刀が奇跡的に残っていました。この大刀と小刀は、幕末戦争のときにお世話をした彰義隊(*4)の隊員から預かったものでした。「武士の魂だ」と言われて預かったものだったので、大切にしまっていたそうです。
この辺りが空襲の被害を受けたときには、隣の源長寺の屋根に焼夷弾が何本も突き刺さって、香炉にお線香をさしたような様子でした。

(*4)…幕末期の慶応4年(1868年)、江戸幕府の征夷大将軍であった徳川慶喜の警護などを目的として結成された部隊。

 

-後世に残したい想い-

区:
戦争経験者として、戦争を知らない若い人たちに伝えたいことはありますか?
長谷川:
西新井橋で焼夷弾を蹴飛ばしたという話をしましたが、気持ちとしては「アメリカをやっつけたい」というものでした。「こいつが家を焼いたんだ」という悔しい気持ちもありました。
戦争に限らず、人と人との争いは、できる限り避けるべきだと思います。面白くないことがあっても我慢することが大切です。それが一番です。戦争中、転校することが多かった私は、転校するたびにいじめられましたが、自分が逆の立場になったら絶対に喧嘩しない、いじめをしないという想いを持っていました。できるだけ争いごとをしない気持ちは今でも持ち続けています。みんなが仲良くすることが一番だと思います。

相川:
当時は防空法という法律があり、空襲があっても逃げることは許されず、消火活動をしなければなりませんでした。逃げて「非国民」と呼ばれることが一番怖かったのです。こうしたことも空襲の被害が大きくなった理由かもしれません。二度と戦争を起こさないようにしてもらいたいと願います。最後に私の考えをまとめてきましたので、読ませていただきます。
昭和20年4月13日の空襲体験を話す相川さん『太平洋戦争では、特に未来の社会に貢献・活躍する若い学生さんをはじめ、家庭のお父さんや兄弟が赤紙一枚で徴兵され、戦火に散りました。その数は軍人・軍属200万人以上といわれています。普通に生活していた人々、私たち赤ちゃんから小学生、お父さんお母さんをはじめ、多くの人が戦渦に巻き込まれて亡くなりました。米軍との戦いに巻き込まれた沖縄の人々、原子爆弾を投下された広島の人々、長崎の人々も大勢亡くなられました。70年以上たった今でも放射能の後遺症に苦しんでいる人もいます。一晩で10万人も焼き殺された東京大空襲。米軍の重爆撃機B29による無差別攻撃の空襲で亡くなられた尊い犠牲の上に、今、この平和があるのです。このことを忘れてはいけません。戦争の悲惨さを忘れた頃に戦争がやってくるという言葉があります。戦争を知らない平和の中で育った皆さんは幸福です。戦争を美化してはなりません。戦争がどんなに残酷なことか知ってもらい、若い皆さんで戦争をしない、平和な国をつくってください。何故、日本はアメリカと戦争をしたのでしょうか。それを知るためには、歴史を勉強することが大切です。過去のことを知って、何の得があるのかと思う人がいるかもしれませんが、歴史を勉強しないと事実と作り事を見分ける眼力や能力が失われます。どうか若い方は歴史を学んでください。そして、二度と戦争のない日本をつくってください。日本は何故、太平洋戦争をしたのか、歴史を勉強して考えてください。提出期限のない宿題とさせていただきたいと思います。』
相川:
私たちは戦争には行っていませんが、空襲や学童疎開などを経験しています。このような経験をした人たちも10年後、20年後には誰もいなくなってしまいます。果たしてこの経験を誰が伝えていくのか。次の世代に記録として残しておくために、今回の取材に応じさせていただきました。

 

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鈴木博子さん

鈴木さんは昭和7(1932)年4月26日生まれで、現在90歳。
開戦から戦局悪化、敗戦、そして戦後に至るまでの体験や、戦争に対する現在の想いなどを語っていただきました。

鈴木博子さん

-開戦を告げるラジオ放送-

区:
戦争が始まったときの率直な気持ちを教えてください。
鈴木:
私が国民学校の3年生のときに戦争がはじまり、ラジオでそれを知りました。戦争が始まったという実感はありませんでしたね。当時はテレビなどなく、ラジオの放送だけでしたが、ラジオでは「真珠湾攻撃大成功」「アメリカをやっつけた」など、良いことばかりが盛んに流れていました。それでも、だんだん食料がなくなってきて、生活が不自由になってきて初めて、戦争って大変なんだと思うようになりました。

区:
戦争の実感がなかったのは、幼かったからですか?
鈴木:
幼かったからということではなく、人それぞれに感じ方は違っていたのだと思います。先日のテレビ放送で、外で遊んでいるときに終戦の放送があり、「戦争が終わった」と子どもながらに喜んだという映像が流れましたが、私には理解できませんでした。「戦争が終わったらどうなるのだろう」という不安の方が大きくて、正直、怖かったです。日本は戦争に負けたわけですから。「女性は男性のように頭を刈らなければいけない」「何をされるかわからないから逃げなければいけない」など、当時はいろいろな噂が飛び交いました。終戦後まもなくは不安を抱える人も多く、長姉の友人は自ら命を絶ったと聞いています。長姉の友人ですから、当時まだ20歳か21歳だったと思います。今の20・21歳とはだいぶ違うとは思いますが、「戦争は怖いな」と実感したことを覚えています。

-戦争の足音が学び舎にも-

区:
戦争が始まって、学校の様子も変わっていきましたか?
鈴木:
日々変わっていきました。男性の先生は皆さん出征してしまったので、残っているのは年配の先生や女性の先生だけ。出産後間もなかった担任の音楽の先生は、学校の近くに住んでいたということもあり、授業中は子守の方に赤ちゃんの面倒を見てもらい、休み時間になると教室に赤ちゃんを連れてきて授乳していたということもありました。教師が足りないので、お寺のお坊さんや女学校を卒業した方など、教員資格を持たない方が代用教員として授業をしていました。学校へ通うには、防空頭巾を持ち、モンペを履いていなければなりません。また、学校へ行く途中で空襲警報が鳴ると家に帰らなければならないのです。
高齢の父や出征中の義兄に代わり、長姉が朝早くから市場で働いていましたので、私が姪をおんぶして学校に行くこともありました。当時、産まれたばかりだった姪も今では77歳になります。当時は、赤ん坊を連れてくる生徒も珍しくはありませんでした。
このような状態でしたので、学校での授業はほとんど行われませんでした。学ぶべき教科書も今のような物ではありません。先生から「教科書の何ページ目の何行目は消すように」と言われると黒塗りしなければならず、結局は読むところがなくなってしまうくらい真っ黒になってしまいました。童謡なども戦時中は直されていました。

区:
学校では、どのような遊びをしていましたか?
鈴木:
学校で遊んだ記憶はあまりありませんが、家に帰ってからはかくれんぼをしたり、おはじきやお手玉をしたりして遊びました。今の子どもたちの遊びとはだいぶ違うと思います。遊び道具もほとんどありませんでしたが、竹馬を作ってもらったことは覚えています。学校へゴムまりが配給されたことがありましたが、数が限られているため、じゃんけんで勝った人がもらっていました。もらった人は自分ひとりの物ではなく、みんなの物という思いがあったので、みんなで一緒に遊びましたね。
物がない時代でしたので、冬になっても靴下などはなく、古い着物や浴衣をほどいて足袋を縫ってもらいました。また、板に穴を空けて、古布を鼻緒にした下駄も履いていました。私が子ども時代を過ごした当時の神明町はそういう人も多かったですね。当時はそれが当たり前で、みんなが大変な時代でした。

区:
当時、農家へ手伝いにも行ったそうですね。

鈴木:
勤労奉仕のような形で農家へ手伝いに行きました。仕事は、田んぼの中の草取りや稲を叩く作業です。ご褒美に白米のおにぎりを2個いただきました。これが本当に美味しくて、私はその場で食べてしまったのですが、なかにはお弁当箱を持ってきて、家族のために持って帰る子もいました。今考えると私も一つくらいは家族に持ち帰っても良かったかなと思います。当時はご飯を普通に食べられることが一番の喜びでした。戦争が始まる前は餅つきなどもありましたが、戦争が始まると全く無くなってしまいましたので、農家の方にお餅などをいただくと、本当にうれしかったです。
戦争に対する現在の想いなどを語る鈴木さん戦争が始まる前の食べ物があるころに幼少時代を過ごし、育ち盛りを迎えたころに戦争が始まり食べ物がなくなってきましたが、辛いと思ったことはありません。「戦争をしているので仕方がない」という気持ちでした。本当は、それではいけないんですけどね。戦争に勝てば食べられると信じていましたし、まさか負けるとは思っていませんでした。天皇陛下から何かお話があると言われたときにも、戦争に負けたという話だとは思っていなかったのでショックでした。「これからどうなるんだろうか」「ちゃんと学校にいけるんだろうか」という不安がいっぱいで、戦争が終わって良かったという気持ちはありませんでした。

-たくましく生きた 戦時中の女性たち-

区:
年齢の近かった、すぐ上のお姉さんとの思い出を教えてください。
鈴木:
私とは2歳違いの次姉は、学校へは行かず、勤労奉仕として軍需工場へ働きに行っていました。軍服の仕立てなどをしていたようです。自転車で大谷田にある工場まで通っていました。当時はそれが当たり前のことで、嫌だという人はいなかったと思いますし、次姉もそうだったと思います。
一番記憶に残っているのは、次姉と一緒に道端の草をむしってきて、父に食べられる草を選んでもらっていたことです。食べるものがほとんどない時代でしたから。食べられる草を貴重な一合のお米と一緒にお粥にして、4・5人で食べたことを覚えています。食べ終わると、次姉と私が交代で鍋洗いをするのですが、鍋底についたものを洗い流さず口に入れてお腹が満たすことも楽しみでした。

区:
戦地から長姉の旦那さんが帰還したときのことを教えてください。
鈴木:
戦争に送り出すときにはみんなで旗を振って、千人針などもしましたが、戦争が終わっても兵隊さんたちはなかなか帰ってきませんでした。長姉の旦那さん(義兄)も終戦から3年くらい帰ってきませんでした。徴兵された直後は手紙でやりとりをしていましたし、戦地派遣時には直接、面会することができたため、長姉は義兄に会いに行っていたのを覚えています。終戦間近になると手紙のやりとりも途絶えてしまい、義兄が生きているのかどうかも分かりませんでした。その当時は、誰がいつ帰国するというラジオ放送があったので、義兄の名前が出てこないか真剣に聴いたものです。長姉は京都府の舞鶴まで度々足を運び、義兄の帰りを待っていました。長姉は言葉にはしませんでしたが、義兄が返ってくるまでは大変だったと思います。義兄が神明町の我が家に帰ってきたときは、突然のことだったのでびっくりしましたし、出征時の丸刈りから、髪がのびた姿で帰ってきたことにもびっくりしました。
長姉は義兄が出征することを承知の上で結婚し、姪は義兄の出征中に産まれました。幸いにして義兄は帰ってくることができて、姪の顔を見ることができましたが、子どもの顔を見られずに戦争で命を落とした人も大勢いたと思います。

区:
女性の目線から、当時の女性たちの様子を振り返っていただけますか?

当時行われていた消火訓練の様子
当時行われていた消火訓練の様子


鈴木:
食べ物がなくて不自由な生活の中でも朗らかな女性が多かったという印象です。井戸端会議のようにみんなが集まると「今日は食べるものが何もないので食事はなしにする」といった話を笑ってしていました。
また、当時の人たちは団結力があって、みんながまとまっていたと思います。例えば、何か頂き物をしたら自分の家だけで食べるのではなく近所の家にもお裾分けをしたり、買い出しに行くにも近所で声を掛け合ったりしていました。
婦人会会長の号令の下で訓練も度々行われました。竹槍を持った訓練や焼夷弾が落ちてきたときに消火するためのバケツリレー訓練などです。みなさん、訓練には何よりも優先して参加していました。今考えると、竹槍で敵をやっつけたり、バケツリレーで焼夷弾の消火をするのは無理だったと思います。それでも、男性たちが留守の間の国は自分たちが守るという使命感にあふれていました。
当時は違法だったのかもしれませんが、買い出しも大変だったようです。長姉らはカボチャをお腹に入れて、妊婦を装ったとも話していました。外から見ればわかるとは思いますが、みんな必死だったのです。帰る途中で空襲に遇い、隠れるところがなくて川に入ったという話も聞きました。でも、それが家庭を守っていくという女性の仕事だったのです。

-忘れられない空襲の光景-

区:
ご自身は空襲を体験されたのでしょうか?
鈴木:
当時の神明町の実家周辺では空襲の被害はそれほどありませんでしたが、現在の住まいであり、夫の実家でもある千住地域は焼夷弾がたくさん落とされて、辺り一帯が焼け野原になったそうです。夫の姉(義姉)は当時買ったばかりの高価なミシンを持って荒川の土手まで逃げたそうですが、あまりの重さに途中で捨ててしまったそうです。後になって逃げてきた道を戻ったところ、木の台座部分は焼けてしまいましたが、ミシン本体は残っていたので持ち帰ったそうです。義姉は、そのミシンを戦後も長い間使っていたのを覚えています。
夫の家族は、千住に戻ってくるまで知り合いの家に間借りして暮らしていたようです。夫と結婚して、ここで暮らし始めたときはバラックでした。ご近所もバラックの家ばかりでした。

区:
空襲について、特に記憶に残っていることを教えてください。
鈴木:
昭和20年4月13日の空襲は鮮明に覚えています。私自身、焼夷弾が落ちてくるところは見ていませんが、空襲を受けた千住地域の空一面が夕焼けのように真っ赤に染まっていました。このとき、B29が自宅近くに墜落したのですが、近所のみんなが自分の家に落ちると思って、隣へ隣へと逃げていきました。赤い火の玉がどんどん迫ってきて、最後は現在の第十三中学校の先あたりの畑(現北加平町の農地)に墜落しました。翌日に見に行ったら大きな穴が開いていて、油がいっぱいだったのを覚えています。その穴に兵隊さんが落下傘で落ちたようだ、という話を聞きました。

 

足立区に墜落したB29のプロペラ。大きさは幅約20cm
足立区に墜落したB29のプロペラ。大きさは幅約20cm


3月10日の東京大空襲も覚えていて、子どもだった私もあまり寝られませんでした。リヤカーに荷物を積んだ人や大きな荷物を背負った人が顔を真っ黒にして逃げてきました。千住新橋を渡って逃げてきたのだと思いますが、中には上野や浅草から逃げてきた方もいたかもしれません。それまでにも家の近くに焼夷弾が落ちてきたことはありましたが、また空襲にあうかもしれないという不安にも襲われました。今では非常用袋を持って逃げるというのが一般的ですが、当時はまさに着の身着のまま逃げるというものでした。貴重品なんてありませんから。お年寄りの中には仏壇を持って逃げるという人もいました。
B29が来ると防空壕に逃げ込むのですが、家族の誰か一人は見張っていなければなりませんでした。我が家は父か長姉が見張りに立つことが多かったと記憶しています。B29に対しては高射砲で反撃するのですが、姉の知り合いは高射砲の破片にあたってお亡くなりになったそうです。
防空壕の中でお亡くなりになった方も大勢いたと聞いています。父の親戚は深川に住んでいたのですが、連絡が取れないということで見に行ったら、防空壕の中で亡くなっていたそうです。終戦近くになると、空襲警報が鳴る前にB29が飛んできていました。空襲警報が間に合わなくなっていたのです。また、B29はアメリカ国旗のマークが見えるほどに低空で飛んでいたことも記憶に残っています。

区:
ご主人やご主人の兄弟たちと戦争の話をすることはありましたか?
鈴木:
何かの拍子に話題に上ることもありました。夫の実家は商売をしていたので、農家の方と交換するものがあり、お米をもらえることもあったようですが、私の実家は交換するものがなかったので苦労したと思います。特に長姉は自分の着物を持って行ったりもしていました。戦争の話はやっぱり辛いものです。できるだけ思い出したくない。今が幸せだから過去のことは考えないようにしようと思うのですが、ほかの国で戦争が起きると思い出してしまう。本当は、ああいう戦争の記憶や経験は消してはいけないことなんでしょうね。

-戦争を風化させないために-

区:
今、世界で起こっていることを若い人たちに見てもらいたいと呼びかけるのはなぜですか?
鈴木:
戦争はこんなにも悲惨だということを若い方たちに知ってもらいたいからです。戦争には一つも良いことはありません。戦争を経験した人たちは特にその想いが強いはずです。終戦から70年以上が経ち、悲惨な事件やコロナ感染症など不幸な出来事も色々ありましたが、日本は戦争をしないだけ良いと思っています。北朝鮮のミサイル発射やロシアのウクライナ侵攻など、いつ何があってもわからない世の中で、未来ある若い方たちが戦争に巻き込まれたらかわいそうなので、戦争だけはなくしてもらいたいと願います。あのころの戦争と今の戦争は武器の性能など全然違うので、もっと悲惨なことになると思います。地球の将来だって、自然災害などで、いつ、どうなるのかわからない中、さらに人間の手による戦争で地球を壊していく必要はありません。戦争は人災です。

区:
最後に、ご自身の体験を伝えようと思ったのはなぜですか?
鈴木:
今回、戦争についてお話ししたのは、自分の覚えていることをお話しして何かの役に立つのであればという思いからです。戦争を経験した方が、これからはだんだん少なくなりますから。戦争ってこんなにも大変なことなんだということを若い方にも知ってもらいたいと思っています。教科書にも戦争の話はあまり出てこない。若い人は、親の世代も戦争を経験していないので、実感がないと思います。だから私は、孫たちにもできるだけ戦争の話をするようにしています。争うことに良いことは何一つありません。親子や兄弟の間であれば、すぐに仲直りもできますが、国同士の場合には、いがみ合うだけです。だから、戦争のきっかけを作らないようにしてもらいたいですね。

 

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木嶋 孝行さん

足立の学童疎開を語る会 会長でもある木嶋さんは、昭和9(1934)年11月1日生まれの87歳。当時の学童疎開先での生活について、西新井のご自宅でお話を伺いました。

木嶋 孝行さん

 

-疎開を決めた西新井の空襲-

区:
最初の空襲について、覚えていることを教えてください。
木嶋:
私が国民学校4年生だった昭和19年の夏ごろ、学校に行ったら空襲警報が鳴ったんです。先生に「みんな帰れ」と言われて僕が急いで帰ってきて、家の畑のトマト畑に隠れていると、アメリカの爆撃機が飛んできたんです。その爆撃機に向かって、足立区にあった高射砲陣地から高射砲をかなり撃っているんです。空鉄砲でしたけどね。それが初めて目にした空襲でした。そのときは子どもでしたし、怖さはあまりありませんでした。

区:
学童疎開に行くきっかけは何だったのでしょうか?

学童疎開について語る木嶋さん木嶋:
昭和20年2月25日、西新井駅あたりに空襲がありました。その日は雪が降っていて、家の近くの電信柱に上って駅の方を見ようとしましたが、雪で見えませんでした。翌日駅の方を見に行くと、家があったところがみんな焼け野原になっていて、家の前で親子が黒焦げになって亡くなっているような惨状でした。そのことを父親に報告すると、「すぐに学童疎開に行け」と言われ、4月25日から長野県へ疎開しました。
長野県に学童疎開をしたのは、足立区の26校の国民学校に通っていた小学4から6年生。7,000人近くが長野県に行って、お寺や旅館に分散して疎開しました。

-寂しく、ひもじく、辛い疎開生活-

区:
疎開した当時のことについて教えてください。
木嶋:
疎開した日は、西新井国民学校から北千住駅まで歩いて行きました。北千住駅から常磐線で上野駅に着いたときに空襲警報が鳴ったんです。すぐ裏の山に防空壕があって、そこに隠れたのを覚えています。それから電車に乗って長野県へ向かうんですが、電車内ではみんなワイワイ騒いでいて、遠足に行くような気持ちでした。
疎開先での食事の様子朝方に長野駅に着き、私たちは駅近くの旅館に泊まりました。そこで出された朝ごはんはお茶碗と味噌汁とお新香。うちの仏様に毎日お供えしていたご飯と同じようなものが出てきたので、一人で笑ってしまったのを覚えています。その旅館から1kmくらい離れたところにあるお寺には、千住の人たちが多く疎開していました。私は時間を持て余していたので、よく遊びに行っていましたね。行く途中で干しリンゴを売っていたので、よく買って食べていました。
長野駅近くの旅館で過ごしていると、5月に空襲があったんです。近くの町に軍需工場があったので、そこを爆撃しに来たようです。私たちがいた長野市でも空襲警報が鳴っていました。このままだとここも危ないから、山の方に移動しようということで、現在の高井村というところのお寺へ男女43名くらいで移動しました。50畳くらいある広い部屋で皆で過ごしました。マンガを読んだり、国語の本を読んだり、将棋を指したり。ゆったりした時間でしたね。

区:
疎開先の生活は、やはり辛いものなのでしょうか?
木嶋:
長野駅前はまだ町の中だったのでそこまで生活に不便さを感じませんでしたが、高井村に行ってからは大変でした。
まずは食料ですね。朝ごはんは大豆とお米が混ざったご飯、味噌汁、お新香だけです。先生が40回くらい噛(か)んでから飲み込めと言うんです。量が少ないので、お昼までにはおなかが空いてくるんです。ご飯ではなく、芋を半分に切ったようなものがご飯代わりに出たこともありました。

疎開先の食事の再現
疎開先の食事の再現

それからシラミ。疎開先ではお風呂に入るのが月に1回あるかどうかでした。泊まっていたお寺にもお風呂はありましたが、それは住んでいるお坊さんのお風呂なので、近所の農家に5.6人で入りに行きました。それが月に一回。だからシラミが出るんです。僕が着ていた寝巻の縫い目にシラミが大量に付いていたことがありました。そのシラミが私の体を刺すんです。音が聞こえてくるくらい。すぐに寝巻を脱いで押し入れに入れたのを覚えています。
また、赤痢が流行った時期もあって、私たちの中でも2.3人かかってしまいました。体中にできものができた子もいましたし。体調が悪くなって、疎開先から東京に戻る子も何人かいましたね。
区:
疎開先での楽しかった思い出はありますか?
木嶋:
疎開先での楽しみは、山にある栗林に行くことでした。栗を持って帰って先生に気づかれると怒られてしまうので、2.3個ずつ拾って寺に帰りました。そのときは10月で寒かったので、寺に小さい火鉢があったんです。そこで栗を焼いて食べたのを覚えています。
それから、お腹が空いていたので栄養剤を買って食べようと5.6人で薬局に行ったんです。栄養剤は売っていませんでしたが、歯磨き粉ならあると薬局の人に言われて、みんなで買って少しずつ舐めました。口に入るものはなんでも食べるほどの食欲がありましたね。疎開先での楽しみは食べることがほとんどでした。

区:
学童疎開をしていた当時は「長野県に行って来い」と言われたから行っていた、という感覚だったのでしょうか?
木嶋:
そうですね。当時の日本への空襲はだんだんとひどくなってきていましたし、西新井で亡くなっている人を見て父親に報告して、行けと言われたわけですから。東京にいたのでは危険で、3月10日の東京大空襲では、上野方面の下町で10万人近くが亡くなったと言われています。そういったことも踏まえ、学童疎開をしたんです。
当時足立区には26校の国民学校があり、7,000人近くが長野県に行き、いろんなところに分散しました。親戚が地方にある家は親戚を頼る縁故疎開をしており、学童疎開に行ったのはそういった頼る先が無い人たちでした。

-終戦、そして東京へ-

区:
東京に戻ってきたのはいつごろでしたか?
木嶋:
疎開先から東京に戻ってきたのが昭和20年11月11日です。8月15日の終戦の天皇陛下の玉音放送を先生、生徒のみんなで聞きました。それから、「日本は戦争に負けた、これからはお前たちが将来日本を良くして、豊かにしていくんだ」と先生が言うんです。そのうち、生徒の一人が泣き始めたんです。ひとりが泣くと、みんなも泣き始めて。そんな状況でした。
戦争が終わったと知ったときは、子ども心ながらほっとしましたね。東京に帰る日は決まっていませんでしたが、「これでようやく家に帰れる」と思ったのを覚えています。東京に帰ってきたときは、国民学校まで親が迎えに来てくれて、私が帰ってきたことをとても喜んでくれました。

区:
当時の疎開先での写真はどなたが撮っていたのでしょうか?
木嶋:
写真を撮る専門の人や、引率の先生が撮っていたんです。写っている皆、元気が良さそうに見えますが、痩せてあばら骨が見えています。集合写真を撮るときには、先生から「笑いなさい」と言われていました。

疎開先で撮影した集合写真
疎開先で撮影した集合写真


学童疎開先での生活が辛いということを家族には伝わらないようにしていたんです。疎開先で手紙を家族や近所のおばさんに出しましたが、内容は「元気ですか。私たちも元気で過ごしています」とその程度のことしか書けませんでした。手紙は出す前に先生に預けるんですが、手紙の内容を先生がチェックするんです。そこに「辛い」といった内容が書かれていると、家族を心配させないように、その手紙を出さずに先生が止めていました。

-これからを生きる世代へ-

区:
「足立の学童疎開を語る会」はどのような気持ちで続けているのでしょうか?
木嶋:
「学童疎開を風化させてはいけない」という、当時学童疎開を引率された磯野先生の強い思いから、この学童疎開を語る会は発足しました。当時先生は子どもたちの引率をして、足立区の子どもたちが疎開した色々な場所を見て歩いていたそうです。だから、「風化させない」という気持ちは相当強かったんだと思います。
私も学童疎開先で様々な経験をして「学童疎開を風化させてはいけない」という思いを持っているので、磯野先生の思いを引き継いで活動をしています。学童疎開を語り継いで、平和が重要だと訴え続けていかなければならないと思っています。だから、年に1回、学童疎開に関する展示会をやっています。今年も足立区立郷土博物館で開催しています。展示会で一番伝えたいのは、「平和がいかに大事なのか」ということです。日本が、二度と戦争をやってほしくないというのが私の思いですね。

足立の学童疎開を語る会
5月19日に行われた「足立の学童疎開を語る会」の会議の様子

 

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