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公開日:2022年8月8日 更新日:2022年8月8日

吉岡 政光(よしおか まさみつ)さん

【区制90周年記念企画】 語り継ぐ-あだちの戦争-決死の覚悟で真珠湾へ 吉岡さん104歳(インタビュー)

吉岡 政光(よしおか まさみつ)さんは大正7年生まれの104歳。真珠湾攻撃に攻撃機の乗組員として参加されました。
兵士として過ごしていた当時の様子や平和に対する思いについてお話を伺いました。

 

 

吉岡青年、海軍入隊

私は昭和11年6月に広島の呉海兵団に志願して入り、そこで6カ月間、海軍の基礎教育を受けました。外出なんて1回もありませんでしたね。その後、大分県の佐伯海軍航空隊で過ごし、昭和12年に日中戦争が始まったころ、霞ヶ浦海軍航空隊に飛行機の整備練習生として転勤しました。そこで半年間飛行機の整備を習い、13年2月、横須賀に入港していた航空母艦「加賀」に飛行機の整備のために乗りました。
私はそのとき飛行機には乗っておらず、飛行機が爆撃に行くのを見ていましたが、「整備するより、やっぱり飛行機に乗りたい」と思い、ちょうどそのとき「第43期偵察練習生」という募集があったので、それに応募しました。身体検査と学術試験に合格して、13年に「加賀」を降り、横須賀海軍航空隊で飛行機の訓練を始めました。

 

飛行機の整備士から「空の航海士」に

約130人が第43期偵察練習生として集まり、昭和13年11月ごろから訓練が始まりました。一つ訓練が終わるとすぐ試験があり、試験の結果によって何人か振り落とされる。14年6月に卒業するときには、130人近くいた練習生が約半分の60人ほどになっていました。
練習生を卒業すると、私は飛行機の操縦ではなく、操縦員の手伝いをする仕事をしていました。一番大きな仕事は、航路を計算すること。船の航海士とほぼ同じことですが、太平洋へ出ていくと、島も影も何もなく、どこまでも海が続いています。無線を使うと敵に見つかってしまうので、地図を見ながら航路を計算します。ガソリンの残量なども考慮しつつ、敵を見つけ、母艦に無事に帰ることができるよう操縦員を補助する仕事をしていました。

 

ヨウイ、テッ!!

吉岡青年

戦争になると、爆弾を落とす仕事をするようになりました。飛行機には「爆撃照準器」が搭載されており、自分が飛んでいる高度や速力、敵がどちらに向かって飛んでいるかを計算するんです。右だ左だ、高い、低いと照準器で敵に照準を合わせて「ヨウイ、テッ!」と爆弾を落とす、そういう仕事をしていました。また、魚雷を落とすときの高度を計算したり、近くに敵の戦闘機がやってきたら、旋回機銃という機銃で敵機を撃ったりなどもしていました。
昭和14年9月に軍艦「蒼龍(そうりゅう)」に乗りこみました。蒼龍に乗った当初は、操縦員と偵察員の2人乗りの「九六式艦上爆撃機」に偵察員として乗っていました。この爆撃機は、敵を見つけたら急降下して爆弾を落とす飛行機です。最高速度は時速約280kmにもなります。しばらくこの飛行機に乗っていましたが、16年の夏ごろになって、風邪をひいているのに無理をして耳を悪くしてしまいました。すると急降下爆撃機じゃない飛行機に乗れと言われたので、「九七式艦上攻撃機」という飛行機に乗ることになりました。爆弾や魚雷を落とす飛行機だったので、役割はほぼ同じでしたが、「操縦員」「偵察員」「電信員」の3人乗りという点で違いがありました。「操縦員」は操縦。私は「偵察員」として航路を計算し、爆弾を落とす。「電信員」は無線電信、旋回機銃があるので、後ろから撃ってくる敵機へ撃ち返すという役割でした。

 

月月火水木金金、絶え間なく訓練を行っていた

魚雷には300kgの爆薬と水中を前進するプロペラ(スクリュー)を回すためのエンジンが積まれており、合計すると800kgにもなりました。海に落とすと50mほど沈んでから浮き上り、そこからプロペラで進んで敵の船底に当たるようになっています。しかし、真珠湾は海が浅いので、普通に落とすと魚雷は海底に沈んでしまうんです。ですから、海面から浅い深度に魚雷を落とす訓練ばかりをやっていました。
当時は非常に訓練が激しくなっていて、正月も関係なく、昼も夜もずっと訓練しているような時代だったのを覚えています。
訓練は、鹿児島県と熊本県の境にある出水基地で行っていました。出水の西側の海岸は海が浅いので、低い高度で飛びながら、魚雷を海面から8mくらいの深さに落とす訓練をずっと続けました。魚雷にも色々な工夫が凝らされ、海面から10m以内の深さを走っていくものが開発されました。11月に入ると、浅い海面でも10m以内に魚雷を落とすことができ、攻撃対象の船の大きさによって、魚雷を落とす深さを変えることもできるようになっていました。
この訓練を行っている当時は、真珠湾攻撃を想定した訓練だとは知りませんでした。

 

どこに行くのか、誰にも分からなかった

昭和16年11月中旬ごろ、蒼龍は大分県の佐伯湾に入港しており、そのときは戦艦「長門」や「陸奥」も一緒に入港していました。
船に乗りこんだとき、通路にドラム缶が積んであることに気づきました。幅1m20から30cmくらいの通路にずっと並べて置いてあったので、人が通るところが狭くなっていました。「人が通るところにドラム缶が積んであるよ」なんて思って。ドラム缶の中身は重油。匂いですぐに分かるんです。「なんでこんなところに」と思いましたね。
通路の天井には水やガソリンのパイプが通っているんですが、そのパイプには凍結防止用の白い石綿が巻き付けられていました。「今日は変なことをしているな」と思いながら、仲間たちが休憩している場所に行き、皆が色々と話をしているところに入っていったんです。そこでは、パイプの石綿を見て「冬支度をしているんだ」と言っている者もいれば、半ズボンの作業服が積まれているのを見て「暖かいところに行くんじゃないか」と言っている者もいました。「寒いところなのか暑いところなのかは分からないが、ガソリンを積んでいるから遠くに行くらしい。でも、どこに行くのかは分からない」と、そんな状況でした。

 

空母・戦艦が集結

決死の覚悟で真珠湾へ普通、船が出航するときは「出航ヨーイ出航」と合図があるものですが、そのときは何も知らないうちに佐伯湾を出航して、気づいたら海の上を走っていたんです。しばらく乗っていると、「ただいま、伊勢神宮の前を通る。総員、左向け、敬礼!」と合図があり、船の左側を向いて敬礼したんです。伊勢湾の前は何度も通ったことがありましたが、こんなことは初めてでした。
朝起きると船が泊まっており、「ここはどこだ」と聞いたら、そこは千島列島にある択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾。大きな湾で、船がたくさん入ることができるような場所でした。函館までは来たことがありましたが、千島列島は初めてだったので、「こんなところに来て何をするんだろう」と思いましたね。そこには「蒼龍」だけでなく、「飛龍」「赤城」「翔鶴(しょうかく)」「瑞鶴(ずいかく)」といった航空母艦のほか、戦艦もたくさん入っていて驚きました。

まさかアメリカと戦争をするとは思わなかった

昭和16年11月24日になると、艦長から「艦隊司令官の訓示を読むから搭乗員集合」と言われ、下士官兵約80名が集まりました。そこで艦長が「今から艦隊司令官、南雲中将の搭乗員宛ての訓示を読む」と言うんです。「暴慢不遜(ぼうまんふそん)ナル宿敵米国ニ対シ愈々(いよいよ)十二月八日ヲ期シテ開戦セラレントシ」と始まり、「当艦隊ハ、ハワイヲ空襲ス」と。もうびっくりしました。艦長は「お前たちは十分に訓練したから、アメリカの艦隊を沈めることができる。自信を持って行け」ということも言っていました。だんだん頭がいっぱいになってきて、そのうち「十年兵ヲ養フハ只一日之ヲ用ヒンガ為ナルヲ想起シ(*1)」という話になると、頭の中の血が全部船のデッキに吸い取られるような感覚でした。
その訓示を聞いて、「もう帰って来られないな」と覚悟を決めました。出撃する前に、私たち搭乗員は5発の弾が入った拳銃を一丁ずつもらったんです。もしハワイ上空で撃ち落とされ、死なずに落下したときの自決用だと。首から銃を下げて、ライフジャケットに差し込みました。誰が言い始めたか分かりませんが、「どうせ死ぬんだから」と落下時に助かるための落下傘バンドは誰一人としてつけずに出撃しました。

(*1)…10年訓練を重ねたのは、1日の戦いに成果を上げるため

決死の覚悟で真珠湾へ

昭和16年12月8日の出撃当日は日本時間の午前0時30分くらいに起床して、1時30分ごろに発艦しています。真珠湾にはフォード島という島があり、私たちはそこを攻撃することになっていました。アメリカ軍は、真珠湾から少し離れたところにも艦隊が泊まる基地を持っており、どちらにいるか分からないので、私たちより30分早く水上偵察機が2機発艦していました。もし真珠湾ではない基地にいることが分かれば、舵をそちらに切るためです。出撃する前に、艦長の最後の訓示がありました。「俺たちは弓である。君たちは矢である。今、一生懸命に引っ張って、あなたたちを放つんだ。よく先を見て、当たってきてくれ」というような訓示でした。
飛行機に乗ったとき、辺りはまだ暗くて水平線が分かりませんでした。約800kgもの重さがある魚雷を積んでいますから、飛行機が船から出ると重さで少し下に沈むんです。このとき下から受ける空気の圧力で機体が上がっていきます。これがすごく気持ち悪いんです。私たち蒼龍の部隊が最後になりまして、艦隊の上空を一回りしている間に高度が約1,500mになり、180機ほどの大編隊でハワイに向かいました。

 

戦況はどんどん劣勢に

昭和17年の中ごろから暮れあたりには、アメリカから日本より優秀な飛行機が出てきて、当時世界一だと言われていた零式戦闘機が落とされるようになってきていました。17年ごろまでは「勝てそうだ」と思っていましたが、18年くらいから「これはちょっとおかしいな」と思うようになっていたんです。18年ごろになると、真珠湾攻撃に参加したような兵士たちはほとんどいなくなり、即席の教育だけ受けた兵士が飛行機に乗るようになりました。飛行機がアメリカより悪くなり、ガソリンも少ないので、昔のように訓練もできずに兵士の質も落ちてきていたんです。
飛行機が出れば落とされるような状況でした。でも、誰も「勝つ」とか「負ける」と言う人はいないんです。もう命令だから出ていくような感じでした。19年あたりになると、もはや戦争にならないです。出撃しても勝ったためしがないんです。それでも「負ける」と言う人は一人もいませんでした。仕方ないから戦争をやっている。飛行機自体が悪くなっていましたし、部品も無くなっていたので10機のうち3機飛べば良いという状態でした。もうだめだなという感じでした。それでもやめられなかったんです。
これで、結局飛行機が落とされるのであれば、何もやらないで突っ込めということになり、特攻隊が始まったんです。やれと命令されるものでしたから、それ以上のことは考えられませんでした。

 

戦争を経験したからこそ、伝えたいこと

戦争だけはしてはならない」ということを皆さんに伝えたい

私は戦争中に「人を殺して来い」と言われたことはありません。「軍艦をやって来い」とか「空母をやって来い」という命令でした。軍艦を沈めれば人が死ぬのは分かっていますが、誰一人として「私は人を殺した」と言う人はいません。
私は今まで当時のことを話してきませんでした。私の子どもに少し話したくらいです。戦争のことを語る人はたくさんいましたし、本も出ていますから。私自身、「当時のことを話したくない」という思いもありました。
しかし、最近になると当時のことを話す人がもう私くらいしか残ってないんです。戦争は、結局は人殺し。ひと昔前の戦争なんて、爆撃やガスで殺すとか、そういうことばかりじゃないですか。人殺しというのは最低のこと。一番やっちゃいけないことだと思っています。だから、実際に戦争を経験した私が話すことで、「戦争だけはしてはならない」ということを皆さんに伝えたいと思っています。

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