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公開日:2022年8月5日 更新日:2022年8月5日

足友会インタビュー

【区制90周年記念企画】 語り継ぐ-あだちの戦争- 足友会インタビュー

~はじめに~
令和4年5月21日(土曜日)。竹の塚地域学習センターの1階にて、足友会の皆さんにインタビューをさせていただきました。あだち広報8月10日号の関連企画として、このロングインタビューを区ホームページに掲載するためです。
今回のインタビューは、特に「原爆被害を語り継ぐこと」についてお聞きしました。被爆者、被爆二世※、ボランティア、それぞれの想いを語っていただいたこのインタビューをぜひお読みいただき、今一度、戦争、原爆、差別などについて考える機会になれば幸いです。

※…両親またはどちらかが被爆者で、原爆投下後に生まれた人

 

足友会とは...

広島・長崎で原爆の被害を受けた足立区在住の被爆者8人が、1960年(昭和35年)に千住神社の社務所に集まり結成。被爆体験の証言を通して、原爆廃絶や平和のための啓発活動に取り組むとともに、被爆者の権利を守る活動など、会員相互の助け合いを進めてきた。
現在も、原爆に関するパネルや写真などの展示、区内の中学生に対する被爆者による証言活動など、原爆・戦争の悲惨さを広く伝えている。また、高齢化する会員への見舞い・訪問相談など被爆者援護も行いながら、平和のための活動を長年継続している。

 

原爆・平和・戦争を考える展示会

原爆・平和・戦争を考える展示会
忘れていませんか?戦争の悲惨さを。
今だからこそ、平和の尊さについて改めて考えてみませんか?

【期間】2022年8月9日(火曜日)~8月15日(月曜日)午前10時~午後5時
【場所】アリオ西新井1階 センターコートエスカレーター横 特設コーナー

 

足友会のはじまり、そして今。

足友会のはじまり、そして今。

 

 

[足立区(以下、「区」)]
今日は11名ですね。まずは、会の紹介をしていただけますか?

皆、被爆者ということをひた隠しにしていました[足友会]
足立区に、広島と長崎の被爆者がいるということで、私の記憶では、当初200人ぐらいいたと思います。だいぶ前の話です。私がお手伝いを始めたのは、東京に来て声をかけられた昭和40年代初めごろかな。当時は、年に1回大型バスで日帰り旅行に行ったりして。子どもたちも小さかった。会長は、千住に住んでいらした砂川三郎さん。もう故人ですが。その砂川さんと周りの何名かが中心で活動されていました。住まいの近くの神社で立ち上げたのが最初と聞いています。

[区]
当時、今のようにインターネットもなく、電話や戸別訪問で大変だったでしょうね。人づてで被爆者の方を知ったんでしょうか。

[足友会]
皆、被爆者ということをひた隠しにしていましたね。その状況で、一軒一軒訪ねて回ったみたいです。そして今年、足友会は、創立62年になります。戦後77年で、私は当時1歳半ぐらいでした。

[区]
今日参加の皆さんは年齢が様々のようですが、被爆された方は何人ですか。

[足友会]
今日のメンバーでは6人。被爆二世が2人で、その他の方は親族やボランティアです。

[区]
ボランティアの方は、どういうきっかけで参加されたんですか。元々大学の時に平和に関する活動をしていた

[足友会]
私は、二十数年前に梅田のLソフィアで開催していた原爆展示を見に行ったんです。元々大学の時に平和に関する活動をしていたこともあって、当時の事務局長の藤沢さんと話をしたりして。それがきっかけですね。

 

 

 

[足友会]
最近は区役所で展示をしていますが、それまではLソフィアとか西新井のギャラクシティとかでやってたんです。この竹の塚地域学習センターの会議室でもやったかな。記録では平成11年が第一回の原爆展みたい(他の方の「もう忘れちゃったわ」とのコメントに、皆さんの温かい笑顔と笑いが溢れた)。

最近は区役所で展示をしています

 

[足友会]
私も区役所の原爆展がきっかけ。もう20年以上前になるかな。毎年区役所に行っていて、2歳で被爆した藤沢さんに誘われて参加するようになったんです。自分は体験していないけれど、被爆体験を聞いたり、展示を見たりする中で、この人たち(被爆者)の想いを伝えなくちゃいけない、戦争を起こしてはいけない、と本当に思います。次世代に伝えていかなくてはならないですね。

[区]
記録みたいなものは、あまり残っていないのでしょうか。

[足友会]
そうなんです。(冊子になっている)「原子雲」だけなんです。本当は沿革誌を作りたいんですけどね。私たちも、いずれ逝っちゃいますから(笑)。じゃないと、記憶と共になくなっちゃう。なかなか難しいんだけれど。

「原子雲」

 

記憶を継承すること、会を継続することの難しさ

[区]
区役所での展示活動が、近年の活動の中心ということですね。あの展示の準備は、どうやって進めているのですか。例えば、今日のような会合を何回か行って、とか。

区役所での展示活動

[足友会]
そうです。こういう会を開催して、今回の展示物はどうしようか、とか話しています。展示物は、被爆者の会員や親族などが、少しずつ集めたんです。絵が好きな人は絵とか、本当に少しずつ、少しずつですね。

[区]
どこに保管しているんですか。

[足友会]事務局長の家。部屋の半分ぐらい使っちゃってる
私(現事務局長)の家。部屋の半分ぐらい使っちゃってる(笑)。

[足友会]
前は何人かの家に分散してたんだけど。

[区]
それは大変ですね。だって減りませんよね、品物って。

[足友会]
そうなんだけど、少しずつ整理はしてるんです。

[足友会]
広島、長崎の資料館から、展示期間に合わせて借りてもいるんです。だけど、他にも借りたい団体があって、競争なんだよね。今年は準備の出だしが遅れてしまったから、借りられないかもしれないね。

[区]
足立区の会は「足友会」ですが、このような会は全国的にあるのですか。

[足友会]
あります。ただ、休会になっているところもたくさんあるね。人数が少なくなると、活動ができなくなる。23区では、半分ぐらい休会だと思う。近隣では、台東区、荒川区も活動していたが、今は活動していないんじゃないかな、たぶん。葛飾区、墨田区、江戸川区はあるけど、こんな風に10人も集まるところはないと思う。足立区は活動している方だと思うよ。

[足友会]
戦後77年経って、皆さん年齢が高くなっているし、亡くなった方もいる。オギャーと生まれても、77歳だからね(笑)。継承していくことが難しいし、どうやって遺していくか、課題ですね。

[足友会]
それは自然なことなんですよ。消滅していくことは。だから、意識的に遺していかなくちゃいけない。足友会だって必死。ボランティアさんがいるから、何とかもっている。昔は200人ぐらいいた会員が、今は82人。その中で、会費を払っている人は半分ぐらいかな。都の「東友会」との関係や、総会でお弁当出したら、ほとんどなくなっちゃう(笑)。

[区]
区役所の展示の際、被爆者体験など、説明したりお話ししたりしていたと記憶していますが。今日は誰の番とか、皆さん順番で決めているのですか。

区役所の展示は、みなさん順番で決めているのですか

[足友会]
私も何年か担当しているんですけど、話す人は、なるべく象徴的な人がいいと思っているの。私は5歳で被爆したんですが、幸い家族が亡くなったりはしていないし、病気もしていない。そういう意味では、被爆者と名乗るのも気が引けていたし、言いづらかった。差別されるからではなく、苦労した方に悪いって気持ちがあって。今日の参加者には、6歳で家族を全員亡くした方もいる。そういう人が直接話すことが必要だと思うの。

[足友会]
なかなか高齢で、家から出られない方も出てきている。コロナもあるし。

[足友会]
そんな状況ではありますが、学校で活動したりもしているんですよ。

 

 

子どもたちに伝えるということ

年に何回か、中学校で話している自分が被曝したのは2歳

[足友会]
年に何回か、中学校で話している。花畑北中学校、伊興中学校、西新井中学校、青井中学校でもやったね。話すのは体験談だけど、自分が被爆したのは2歳。当時のことは覚えていないけど、育っていくうちに見たり聞いたりして。周りには、すごくひどい火傷の人もいた。私は好奇心が強かったの。原爆が落ちた時どうだったとか、どこにいたのとか、その時なにしてたのって、皆に聞いてたの。うるさい子だねって言われるぐらい(笑)。それが頭に残っているの。

[足友会]今は中学校の教員をやってるんです
私は被爆二世で、今は中学校の教員をやってるんです。父が広島出身で、原爆のことはある程度聞いていたんですけど、被爆者だっていうのは知らなかった。私が45歳の時だったか、初めて原爆手帳を見せられたの。多分、差別を心配していたと思うんです。父は60歳を過ぎて手記を書いた。そこには、克明に状況、体験が綴られていた。冊子の「原子雲」にも掲載された。それを見て、これは絶対に子どもたちに伝えなきゃいけないと思った。それから毎年、「原子雲」の一部を子どもたちに話しているんです。足友会には、原爆展示をたまたま見に行って知り合って、それから参加しています。

[区]
子どもたちの年代だと、その父母も戦争を知らない世代ですよね。話をしたとき、子どもたちはどんな反応なのですか。

[足友会]
子どもたちは、原爆が落とされたということを社会科の授業で学ぶぐらい。実態はよくわかっていない。でもその話をすると、平和について考えなきゃいけないっていう感想を、いっぱいもらいます。本当にこんなことが日本であったのか、っていう反応。話すときは「原子雲」の手記の朗読をするんですけど、それを聞いた美術部の生徒が、それをもとに絵を描いてくれたりもして。それをパワーポイントで映し出して、皆で見たりもしましたね。

[区]
私の祖父も戦地に行ったが、戦争の話はほとんど聞いたことがない。先日、区内在住の吉岡さんという方にインタビューをさせていただいた。戦闘機に乗って戦地に行かれた方。吉岡さんが言っていたのは、戦争について語ってこなかったが、周りの友人たちがいなくなり、話す人がいなくなり、自分が話し始めたと言っていた。「語り継ぐ」のが難しい時代になっているということでしょうか。

戦争には、勝ちも負けもないんだ[足友会]
そうですね。中学校で話した後、感想文をもらった。そこには、「戦争には、勝ちも負けもないんだ」という出だしだった。始めた時から負けているのだと。こんなことを書いてくれるんだと。嬉しかった。もうその子は高校生か大学生だと思うけど、その気持ちを忘れずにいてほしいと期待しているし、そういう気持ちになる子が1人でも多くなることを期待しています。

[区]
授業は一瞬かもしれないが、そういうことを教育現場で伝えていくことが大事ということですね。

[足友会]
大事ですね。子どもたちは、戦争体験、原爆被害を後世に伝えていくことが大事だという作文を書いてくれる。忘れちゃいけないって。

[足友会]
私も両親が被爆者で、被爆二世です。夫は長崎出身です。父はあまり被爆のことを話さなかった。原爆が落ちたのが11時過ぎで、仕事場から見たらキノコ雲がすごかったとしか話さなかった。私も両親が被爆者
父方の叔母も広島で被爆した。父と祖父が、「生きてはいないだろうが行くだけいこう」ということで探しに行ったらしいが、叔母は生きていて、その後、長崎に連れてきた。何年か経った後、爆風で飛んできたガラスが体の中に入っていたことがわかった。痛いのを我慢していたようです。病院に行ってわかったんです。体を切って出さないと、出てこない。その傷がすごいんです。暑い時期でも、長袖に長いもんぺのような格好をしていた。
5年ぐらい前に家族で長崎に帰ったことがあったんです。その時に、2人の孫に原爆資料館を見せてやりたいと思って、すごい酷い写真があるけどいいか、と娘に聞いたんです。高校生と中学生ぐらいだったかな。娘がいいよ、というので連れて行ったんですけど、帰ってきて娘に「やっぱり見せない方が良かったかしら」と聞いたんです。そしたら娘が言うには、孫たちが食い入るように見ていたらしいんです。「お母さん、連れていって良かったのよ」って。「連れていかなかったら、何も知らないで終わったかもしれない」って。そういう意味で、学校で被爆者が伝えることが大事だと思います。

 

 

被爆者の苦労と差別

[区]
ご自身やご家族が被爆され、皆さんそれぞれご苦労されたと思う。大変だったことなど、教えていただけますか。

[足友会]原爆で家族全員亡くしました
私は6歳だったんですけど、原爆で家族全員亡くしました。叔母が学校の先生で、自分は今でいう幼稚園ぐらいだったけど、上の年齢の子どもたちと一緒に、特別に疎開先に連れていってくれたみたいです。歳が離れた兄は当時大学生で、夏休みで広島に帰ってきていた。原爆投下の4日ぐらい前だったと思うけど、父親が疎開先に迎えにきたんだよね。
その時、多分お腹を壊していたんだろうね。もう少し預かってくれって言って、父親は広島に帰って行った。そして原爆が落ちた。偶然だよね。だけど、生き残った方が辛かったね。親父、お袋、兄貴、妹、皆死んだ。うちは爆心地から800mぐらいだった。当時の状況は、教員だった叔父から自分が50歳ぐらいの時に聞いた。防空壕の中で家族4人が死んだって。悲惨だから、伝えられなかったって言っていた。その後6歳で東京に来たから、広島のことはあまり覚えていないな。うちの親父は11人兄弟だけど、その親戚にも家族全員亡くした者がたくさんいる。26、7人亡くなっている。原子雲も見たよ。鮮明に覚えてる。お寺の外廊下を歩いていたら、ちょっと地震みたいな感じだった。爆心地の方を見たら、雲が上がっていた。でも、それからが大変だった。食べる物もなかったし、ひどかったね。
差別もあったよね。一番印象に残っているのは、26歳で結婚した時。妻が、「結婚したんだから、保険入った方がいいよ」って言うから、営業を呼んだの。その時は被爆者手帳を持っていなかったんだけど、本籍を広島県広島市って書いたら、もしかしたら保険入れないかもって言うんだよ。2、3日待ってくれ、上司に聞いてみるからって。結局は入れたんだけど、差別はあったよね。

[区]
他に、どんな差別があったんですか。

 

[足友会]
私は被爆二世ですが、小学校の時は、父も母も、広島出身だとあまり言うなって言ってましたね。その時は理由がわからなかったけど、後になってみると、広島ということで差別されないように言ってたんだと思います。放射能で子どもが産まれないとか、障がいのある子どもが生まれるとか、そういう噂があったんでしょうね。

原爆や被曝に関する活動は平和運動なんです[足友会]
私の親戚の女性は、長崎から東京に来たんですけど、被爆してることで結婚が破談になった。私自身はそういう差別ではないけれど、大学の時に顔のそばかすが原爆のせいなのか、と言われたことがあった。ワーワー泣きましたね。それを作文に書いたら新聞に載って、それで当時の事務局長の藤沢さんから電話があって、足友会に来てみないかって誘われて。
少し思想的な活動なのかなと思って不安があったんですけど、藤沢さんが、そんなことはないよって。総会に来てみたら、被爆者の皆さんが助け合って活動していることがわかって、参加するようになったんです。

[足友会]
原爆や被爆に関する活動は平和運動なんです。なんだけど、運動という言葉に少し誤解があるんです。学校でも、もう少し活動ができたらいいですね。

[足友会]
私には昭和44年に産まれた子どもがいるんですが、小学校3年生の時に、頭が痛いっていうので、いろんな病院に連れていったんです。どこに行っても、なんでもないよっていうし、大人でいう偏頭痛かもって。でもあまりにも痛がるから、ある病院で先生に無理言ってレントゲンを撮ってもらったら、頭の骨の一部がなかったの。レントゲンに写っていない部分があって、わかったの。レントゲンを持ってきた先生の手が震えてた。産まれた時からないのか、途中でなくなったのかもわからず、すぐ大きな病院に行ったんです。すぐ手術しようということになって、6ヶ月ぐらい入院しました。その時周りから、「お母さんが広島で原爆にあっている人だから、子どもの骨が溶けてるんだ」って言われました。

[足友会]
骨の病気というのは、今は原爆症の認定を受けやすいでしょ。

治療でも放射線を多く浴びた[足友会]
今はね。でもあの当時は、国は認めてくれなかった。

[区]
被爆が原因かはわからないが、周りの目が、最初から原爆が原因だと決めつけているような差別があったということですか。

[足友会]
そうですね。治療でも放射線を多く浴びたからか、髪の毛とか頭皮とかに影響が今もありますね。「広島の人だから」と何かと関連付けられてしまうこともありました。

[区]
今、平成、令和の時代になって、まだ差別はありますか。

[足友会]家族が周りから言われることが嫌だった
被爆者の中には、連絡物などを郵送しても拒否する人もいます。関係者の心の傷は消えていないですね。自分の子どもたちには、広島出身と絶対言わないでくれ、という人もいた。冊子の「原子雲」にも、名前を載せないでイニシャルの人もいる。かつては、郵送物の見えるところに、足友会はいいが、「原爆」という文字を出さないでほしいという方もいたんです。自分のことよりも、家族が周りから言われることが嫌だったみたい。

[足友会]
私も出産した時に、夫は私には言わなかったけど、「五体満足ですか」と義理の母に言われたようです。心配してのことだと思うけど、やはり被爆の影響があると思っていたみたいですね。

 

 

原爆被害を、語り継いでいく。

[区]
今後、足友会の活動はどうなっていくと思われますか。または、こういうところは課題だな、ということがありますか。今年の夏は、西新井のアリオで展示する話もあると聞いていますが。

年齢からしてキツイ年齢になってきている[足友会]
とにかく、年齢からしてキツイ年齢になってきている。被爆二世やボランティアに助けてもらってやっているが、これがどこまでできるか、正直わからない。ただ、皆の気持ちとしては、原爆と平和を考え、子どもたちに伝えることだけは、なんとかやれる範囲でやっていきたい。やりたい気持ちは皆ある。でも、実際はクエスチョンがつくかな。来月(6月)に総会があるので、それは今まで通りやりたいと思っている。

[区]
失礼な言い方かもしれないが、人間誰しも歳をとる。正直、順番もある。気持ちはあるが、なかなか難しいことも出てきている、ということでしょうか。

[足友会]
非常に難しい。今はボランティアの人たちに助けてもらっているが、私自身も、この会の役職や作業が本当に辛くなる時もある。

一番若くて77歳だからね[足友会]
一番若くて77歳だからね。一世は、あと5年ぐらいかな。あとは二世の人たちに頑張ってもらって、維持するしかないんじゃないかな。

[足友会]
被爆二世の立場としても、本当、そうだと思うし、語り継ぐことが大事だと思う。学校は必ず通る道だから、義務教育の間に体験談を聞いたりすることは必要だと、すごく思う。

[足友会]
被爆者の会には、国や東京都でもいろいろ考えがある。東京都は被爆者が構成する会と言っているが、それでは維持できないと私たちは思っている。足友会も原爆被害者の会と言っているが、ボランティアや被爆二世に入ってもらってやっている。補償の関係とかもあるから難しいのだとは思うけど、変えていかないと。そうでないと、語り継げない。

[区]
ボランティアの方の話が出たが、ボランティアの立場として、今後の活動はどう考えますか。変わっていくのか、変わらないのか。

段々被爆者もいなくなって、活動できなくなってくる[足友会]
難しいこと聞きますね(笑)。私はここに関わっているから、被爆のことを語り継ごうと思うけど、関わっていなかったら、普通のサラリーマンで、そんな風には考えなかったと思う。被爆者の会だよ、というのは会則にもあるけど、実際問題、段々被爆者もいなくなって、活動できなくなってくる。
ここにいる皆さんは80歳ぐらいでパソコン使って、よくやってらっしゃると思うけど、厳しい状態ではあると思う。被爆者がいなくなれば、被爆者の会がなくなる。新しい被爆者が出ては困るし。でもその時に「はい、なくなりました。はい、解散。」は一番いけない。終わり方を皆で考えていかなければならないと思います。この1、2年で記録を残そうとか、被爆者の会という名前ではなく平和を考える会にしようとか、これからのビジョンを考える時期に来ていると思う。

 

私は関わりは二十数年前から[足友会]
私の関わりは二十数年前からで、実際にこの会の運営に関わって1、2年なんですが、入って知ったことは、実際に被爆した方の体験を聞いて、絶対、平和の意味を継承しなくてはいけないと思った。学校にいくと、先生が事前にきちんと教えてくれているから、被爆者の話が伝わっていると感じる。
だから子どもたちがきちんと感想を述べることができる。聞いたり体験しないとわからないということだと思うが、私自身もこの会に入って、これは生半可な気持ちではできないなと思った。これからもお手伝いしながら、被爆の体験を伝え、戦争は絶対しちゃいけないんだ、ということを伝えていきたい。自分は体験していなくても、必ず語り継いでいくことができると思う。

 

核は使っちゃいけないと地球上で認識したと思っていた[足友会]
私は20世紀中に、核は使っちゃいけないと地球上で認識したと思っていた。でも、このウクライナ危機で、そうではないと感じた。またもう一度、反核運動が必要なのかと。もう一回やんなきゃいけないの?と。本当に怖いです。また核が使われてしまいそうで。

[区]
昨日、東京大空襲について語ってこられた早乙女さんを送る会があったようだ。今日の新聞各紙で紹介されていた。ウクライナのことがあるせいか、このところ戦争について話題になることが多いような気がしますが。

[足友会]
私たちからしたら、また戦争か、と思ってしまう。

[足友会]
子どもたちに、原爆を落としたアメリカが悪いのか、と問うと、日本も戦争したのだからそうじゃないと言う。歴史の背景や過程も含めて学ぶことが大事だと思う。皆さんがきちんと勉強していかないと平和は続かないんだよ、と子どもたちには伝えている。先生たちも戦争を知らない世代になっている。
先生が一番一生懸命に聞いてくれたりする時もあるよね(笑)。最後に感想文を書いてもらうんだけど、「私たちに任せて。私たちが引き継ぎます」なんて書いてある時もありますね。嬉しいですね。

[区]
どう頑張っても私たちでは伝えられないことがありますから、これからもぜひ足友会の皆さんから、子どもたちに原爆や戦争について伝え続けてください。

 

 

おわりに

一時間半、インタビューさせていただきました。長い時間ご協力いただきまして、ありがとうございました。
このインタビュー記事は、読みやすくしている部分はありますが、なるべく話していただいた言葉そのままで掲載しています。
なぜなら、読んでいただいた方々に足友会の皆様の想いが、より伝わると考えたからです。
この企画を通して、原爆について語り継いでいくことの難しさ、語り継いでいくことの大切さを、区民の皆様に少しでもお伝えできたのであれば幸いです。

取材:足立区報道広報課

 

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