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公開日:2020年5月8日 更新日:2022年5月22日
古来、疫病とよばれた伝染病は、目に見えない「疫病神」のような存在が、これを起こしていると考えられていました。
疫病神は、鬼や妖怪のような奇怪な姿をしており、人にとりついたり、家に入り込んだりして人々を病気にするものであると想像したのです。
疫病に罹らないようにするためには、疫病神を追い払い、近寄らないようにする必要があり、そのために、神仏の力や、疫病神が嫌い苦手とするものを使おうとするなど、さまざまな呪い(まじない)や儀礼が行われてきました。
この特集ページでは、「悪疫退散」を祈るそうした民俗をご紹介いたします。
民家の門守(大津市坂本) |
家というプライベートな空間に、疫病神や魔物を入れないように祈り、玄関を始めとする出入り口に掲げたり、置いたりするものを門守といいます。 ご利益のある社寺から授与されるお札や縁起物のほかに、節分のときに付けられるヒイラギとイワシの頭などのように、民間で広まった呪術のようなものもあります。 門守は現在でも、厄除けのご利益があるとされ各地で見ることができます。 |
元三大師とは、平安時代の比叡山延暦寺の高僧で、良源、慈恵ともよばれています。 元三大師が都にはやった疫病の調伏を祈って座禅をすると、悪疫を退治するために恐ろしい鬼のように変化した姿が鏡に映ったといわれています。その姿を弟子が写しとり、元三大師の命により、版木にして刷った紙札を家々に配り戸口に貼り付けることによって、悪疫は治まりました。以来、悪疫除けのお札として伝えられています。 元三大師の縁の寺では、角大師の札を授与しています。 |
7月に行われる京都八坂神社の祭礼である祇園祭りは、都に疫病がはやったおりに、疫病送りとして行われた祇園会(ぎおんえ)が発祥です。八坂神社の前身である祇園社の祭神、牛頭天王(ごずてんのう)は、のちに神仏分離により素戔嗚尊(すさのおのみこと)とされますが、これらの祭神は疫病を起こす強い力があり、丁寧に祀ることによって逆に疫病を除けるご利益があるとされたのです。 祇園祭りは疫病除けに縁の深い祭りで、山鉾で授与される縁起物の粽は、疫病除けの効力があるとされ、京都の家々では一年間玄関に掲示しています。 長刀鉾で授与する粽には「蘇民将来子孫也」の神札がついています。 また伊勢地方では玄関に一年中注連飾りを飾る慣習がありますが、そのなかには「笑門」、「先客万来」などとともに、「蘇民将来子孫家門」と書いた札が付けられたものを見ることができます。一年間の降伏、厄除けを祈るものです。 茨城県鹿嶋市では、中世の遺跡から「蘇民将来子孫」・「急々如律令」と片面ずつに書かれた木簡が出土しています。 「急々如律令」は古い言葉ですが、現在も厄除けのお札として使われています。 |
陰陽道、道教、修験道などの魔除けの呪符に使われている印があります。それが、五芒星と九字切りです。 この印は、三重県志摩地方(現・鳥羽市と志摩市)の海女が、セーマンドーマンとよび、磯着や頭巾などに刺繍する柄として知られています。 もとは、陰陽道、道教、修験道などの信仰の教義に基づくものですが、災厄除けの印としての民間信仰となっており、民俗行事のなかで使われるお札などにも書かれていることがあります。 |
疫病除けの効力のあるものを身近に置いて、少しでも災厄を除けようとするものがあります。
とくに、幼い子どもを守るために、玩具や着物などに魔を祓う呪いを込めることも行われていました。
鍾馗は、中国の伝説に登場する人物で、病気の皇帝の夢にあらわれ、病気を起こす鬼を退治したと伝えられています。 こうした掛軸は、疫病除けという縁起物と鑑賞絵画との双方の役割を果たしました。 |
朱色(赤い色)には魔除けの意味があることは、数々の縁起物が赤い色に彩られていることからもうかがえます。
会津の赤べこや、埼玉県鴻巣市で作られる「赤物」とよばれる真っ赤なダルマや金太郎などの郷土玩具は、疱瘡除け、疫病除けとして子どもの身近に置かれました。
疱瘡除けにご利益のある浮世絵は、赤の濃淡で刷られています。
当時、恐ろしかった疱瘡(天然痘)を除けるために、護符のように用いられました。
題材には、疱瘡神が嫌うとされる犬、病が軽くすむように軽いススキミミズク(目が大きいため失明をしないためともいわれている)、倒れてもすぐに起きあがるダルマなどの縁起物、疱瘡神を退治したという昔話のある源為朝、鬼退治の桃太郎なども登場します。
※ススキミミズク:江戸時代から雑司が谷鬼子母神の参詣みやげとして販売されていた、ススキの穂を束ねて作った玩具。
子どもや病人には赤い着物を着せて、病気の治癒や予防をはかることも行なわれました。 |
「家・屋敷地」がひとつの空間を示すのと同様に、自分たちが暮らす集落という空間(村)に疫病神を入れないように、大勢で協力して行う儀礼もあります。
家々が深くつながり、生活と労働の場であった集落は、家と同様に大切な空間でした。
神仏の効力にさらに大勢の力を合わせる(合力)ことで、悪疫に対抗する強力なパワーを作り、自分たちの住む地域の悪疫を追い払うものです。
一年間の無事を祈ること、また夏の暑さによって病気がはやる前にということで、春から初夏に行なわれる年中行事になっています。
足立区内で行なわれる行事を紹介します。
江戸時代の村である辰沼新田にあたる旧家の人々によって行われる行事です。
鎮守の稲荷神社に集まり、五色の幣束(へいそく)を作り、それを挿した梵天(ぼんてん)とよばれる大きな竿を立てるものです。
梵天には、「日天 月天 天下泰平五穀豊穣家内安全収 辰沼若者中」と書かれた札が付けられます。
現在は、境内前の道と境内のイチョウの木の横に、できあがった竿を立てて拝み、その後、手水舎の横に設置しています。
かつては、辰沼の集落の四隅をめぐり、その四カ所に竿を立てて拝んでいたといいます。集落の四隅に梵天をたてて拝むことで、集落内に災厄を入れないようにするという様子が伺えます。
また、一緒に作った幣束は祈祷後、各家に配られ魔除けとして飾られます。
大般若とは『摩訶般若波羅蜜多経』六百巻を転読し、経典の入った箱を担いで集落を回る行事です。
転読とは、経題を読み上げ、中の一部を読んで、あとはパラパラと広げて、最後に「降伏一切大魔最勝成就」と唱えて、一巻をすべて読んだこととするものです。
大般若経の転読を行う大般若会は寺院の行事ですが、経典の入った箱を担いで集落の家々を回る行事は、経典の効力を借り受けて集落内の災厄を祓うことができると考える民間信仰が生んだ行事です。
足立区内では、花畑、保木間、伊興、大谷田など各地で行われていました。
百万遍念仏(百万遍)の起源は、1331年、後醍醐天皇の時代、都に疾病がはやったとき、京都知恩寺にて七日七夜にわたって百万遍の念仏を称えながら大念珠繰りをしたところ疫病が治まったことが発祥で、時代が下がるにつれて各地に伝わったものといわれています。
効力ある念仏を、膨大な回数、大勢で唱えるということで相乗効果があると考えるものです。
実際は、百万回唱えるのではなく、数珠のひと周りを十万回と数えるなど、まとめて数えています。
さらに、集落内の家々を回って各家で百万遍を行うことも行われていました。
千住二丁目には元禄八(1695)年の百万遍の古文書が残されるなど、かつては区内各地で行われていたことがうかがえます。
江戸時代の花又村鷲宿に伝わる一人立三匹獅子舞です。 埼玉県から多く分布する三匹獅子舞のひとつですが、夏の疫病祓いの行事として始まったと伝わることや、この地域が川に囲まれた低湿地であることを背景にした、「獅子頭が流れてきた」、「獅子頭をかぶって堤防を切りに行った」といった洪水に関わる伝承があることが特徴です。 祈祷獅子舞とよばれるように、獅子頭や獅子舞には霊力があると考えられています。 大正時代に集落に疫病がはやったときに、疫病を祓うために家々を回って踊ったと言い伝えられ、「天下一江戸角兵衛」の銘のある特別な角は、疫病がはやったときだけに使うとされています。 舞の休憩中に、安置してある獅子頭を頭にかざすと、身体堅固になる、風邪を引かないというように獅子頭の霊力についての信仰がうかがわれます。 祈祷獅子舞の祭礼のご奉納のお返しとして、「悪疫退除之符」の札と花笠につける藤の花の造花が授与されます。藤の花の造花も玄関に挿しておくと魔除けになるといわれています。 |
医学の未発達な時代、人間にとって疫病は大きな脅威でした。
疫病に罹らないように行われたこうした呪術や儀礼には、実際の効果を期待することはできません。
しかし、人々が期待し、慎み、みんなで協力して疫病に立ち向かおうとする強い気持ちは現在も同じです。
疫病や災厄を祓い、それによって幸運が訪れることを昔も今も求めています。
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