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公開日:2015年8月8日 更新日:2020年10月15日

戦後70年 足立、戦争の記憶

「終戦70年 足立、戦争の記憶」メイン画像

戦後70年。当時の記憶は、年月の経過とともにしだいに失われつつあります。その記憶・記録を後世に残すため、当時の様子をご存じの方たちの声を集めました。

戦時中の足立

昭和18年に発行された冊子

昭和15年5月、供出(*1)米強制措置が決定。足立区でも、わずかな保有米のほかはすべて供出の対象となった。その供出量も戦争の激化とともに拡大し、多くの農家が収穫米のほとんどを出さなければならない状態であった。また、区内各地の指定工場には、多くの女学生らが勤労動員(*2)されていた。学校でも、学業のかたわら傷病兵用の白衣を縫う勤労奉仕を行っていた。

*1...政府などの要請で、物資や農産物を差し出すこと
*2...戦時中の労働力不足を補うため、主に学生が軍需産業や食料生産に動員されたこと

(青木豊一コレクション)

足立の疎開

疎開先での食事の様子(西新井国民学校)昭和19年8月ごろから、足立区でも学童集団疎開が始まった。国民学校初等科3年生から6年生(8歳から12歳)の約7,000人が親元から遠く離れ、学校単位で長野県長野市や下高井郡豊郷村(現・山ノ内町)へ疎開した。しかし、中には疎開に行くための荷物を焼しょうい夷弾だんで焼失して行けなくなった子、疎開したものの「別れ別れで死ぬより一緒の方がよい」と親が迎えにきた子もいたという。

足立から戦地へ

足立区からも、多くの人々が徴兵された。しかし、東京大空襲で当時の足立区役所が焼失したことにより、記録は失われてしまっている。

千人針に込められた想い

徴兵される兵士には、出征の際に親類や恋人などの近しい女性たちから、彼らの生還を祈って縫い上げられた「千人針」が贈られた。兵士たちはそれを腹に巻いたり、帽子に縫い付けたりして戦地での弾除けのお守りにしていたという。

千人針(綾瀬在住・大室康一氏蔵)

1m程の布に、赤い糸で結び目を作る「千人針」(綾瀬在住・大室康一氏蔵)

空襲と足立

昭和19年11月からはじまったB29による爆撃は106回にもおよび、東京は焦土と化した。農地の多かった足立区は空襲の対象となることは少なかったが、翌年の3月9日・10日と4月13日・14日など、たびたびの空襲で千住の商業地域一帯をはじめ、足立区役所、学校などが爆撃にあい、千住地域は一部を除きほぼ焼失。農地の多かった地域でも多数被害を受け、約1万8,000戸以上が焼失し、約6万5,000人以上の区民が罹災(りさい)した。荒川には、戦火を逃れようとして力尽きた人々の遺体があふれていたという。

焼夷弾(しょういだん)の恐怖

焼夷弾とは、爆弾の一種で、攻撃対象を焼き払うために使用されたもの。東京大空襲の被害の多くが焼夷弾によるものだった。主に油脂性の発火剤が装塡されていて、破片が付着すると除去しにくく、消火も困難であった。

空襲・焼夷弾にまつわる声

  • 空襲が来て、防空壕に非難していたとき、親が「B公(B29)がいるから(見に)出てみろ」といったのを覚えています。当時国民学校初等科の6年生でしたが、足がすくんで防空壕から出られませんでした。
  • 当時、空襲警報は頻繁に鳴らされていましたが、私の周囲では、「爆弾は(命中率が悪いので)めったに当たらない」と言われていました。そのせいか、「自分は(爆弾には)当たらない」と信じていましたね。
  • 空襲警報が鳴ると、みんな防空壕に入りますが、自宅の庭や軒下につくる家もありました。しかし、足立区は地盤のゆるい場所が多く、土を掘ってもすぐ水が出てきてしまっていました。
  • 焼夷弾が自宅近くの道路に落ちたことがありました。道路に大きな穴が開いていて、火のついた焼夷弾の破片が周囲に飛び散り、まるでたくさんのロウソクに火がともっているようでした。子どもだったので、その火をきれいだなぁと思いながら見ていました。
  • B29が撃墜され。乗っていたアメリカ軍の兵士が落下傘で屋根の上に落ちてきたのを覚えています。
  • 自宅(西新井)近くで空襲の被害にあいました。家族で防空壕に逃げ込みましたが、みんな気絶してしまいました。最後に防空壕に入ってきた祖母は「周りは火の海だった」と言っていました。
  • 爆弾の直撃を受けなかった家屋でも、爆弾が落ちた衝撃でふすまなどは吹き飛ばされてしまっていました。

戦争を語るモノ

郷土博物館では、戦火を逃れ伝えられた品々を展示しています。

インタビュー

「今も忘れられない空襲の日の光景」 寺島光枝さん

当時、五反野に一家で住んでいました。昭和20年3月の東京大空襲のとき、学校があった浅草方面の空が真っ赤に焼けていたのを見て、空襲が去ったあと友人たちと見に行ったのを覚えています。途中、たくさんの遺体がありました。沿道には真っ黒に焼けた遺体が丸太ん棒のように横たわり、隅田川にも多くの遺体が浮かんでいました。そんな凄惨な光景が今も目に焼き付いています。幸い我が家は空襲の被害にはあいませんでしたが、それでも食べるものには苦労しました。母が郊外まで出かけていき、着物などをイモや米と交換していました。食べ盛りだった私たちのために本当に苦労していたと思います。弟たちが近所で釣ってきたエビガニ(アメリカザリガニ)を、キャベツと一緒に煮て食べたりしたこともありました。私が通っていた女学校で農園を持っていて、そこで採れたインゲンを少しもらったのですが、「親が少しは助かるんじゃないか」って、喜んで家に持ち帰った記憶もあります。母から聞いた話ですが、当時は足立区でもシラミがよく出ていたようですね。幸い私たちの家では出ませんでしたが、女の子のいる家などは苦労したようです。そんな状況でしたから、戦争が終わったと知ったときはとにかくホッとしたのを、昨日のことのように覚えていますね。

「戦時下、女性たちも一生懸命に生きていた」 清水時子さん

終戦の年の4月に、大きな空襲にあいました。家財道具を積んだリヤカーに焼夷弾の火がかからないように注意しながら、家族で必死になって逃げました。周りに遺体も多かったようですが、10代だった私に兄が、「お前は見るんじゃない」と強く言ったことを覚えています。結局、自宅は焼けてしまいましたが、幸い家族は全員無事でした。私は当時、女学校に通っていましたが、戦局が厳しくなると授業そっちのけで軍需工場での勤労奉仕に駆り出されていました。何を作っているのかわからないまま、線をハンダ付けする作業を毎日繰り返していました。戦時下の女性たちは、国や兵隊さんたちのために献身的な活動をしていました。その一つが「千人針」で、さらしの布に赤い糸で千個の結び目を縫い付け、お守りにと出征兵士に持たせるんです。また、手ぬぐいを縫い合わせた袋に食べ物や日用品を入れて戦地へ送る慰問袋もよく作りましたね。当時は、兵役に行ったりして若い男性が少なかったですし、同世代の男女で話すような風潮もありませんでした。一緒に歩いている兄からも「少し後ろを歩け」って言われるような、そんな時代でしたね。

「焼け野原となった千住のその後の復興に感慨」 桾沢昭三さん

当時は、5軒から10軒でつくる隣組という組織があり、回覧板を回して配給の情報など共有していました。空襲に備えての対策も組単位で取り組んでいて、家には消火のための火ばたき(はたきのようなもので水に湿らせて使った)や鳶口(とびくち)、バケツもありましたが、いざとなると逃げるのが先でしたね。私が足立区に転居したのは戦後ですが、妻が千住出身ということもあり、千住地域の戦時中の様子はよく知っています。空襲は最初のころ軍需工場が爆弾で狙われ、のちに焼夷弾で住宅が焼かれました。千住あたりには古い蔵が多かったのですが、焼け残った蔵が冷める前に扉を開けてしまい、急に入った空気で内部が燃え出すということもあったそうです。東京大空襲で千住も大きな被害が出ましたが、千住大橋も千住新橋も落ちなかったと聞いています。「お国のため」という価値観は終戦を境にガラリと変わりましたが、このまちの様子もその後大きく変わりました。今、千住周辺の発展した様子を見るにつけ、感慨深い気持ちになりますね。

サミシイ・ヒモジイ・カユイ集団疎開

学童集団疎開は、昭和19年の8月から計3回行われ、多くの子どもたちが親元を離れ長野県へ疎開しました。しかし、疎開先では食べるものも少なく、衛生状態も悪かったため、子どもたちにとって苛酷な環境でした。

  • 第1次疎開は約半年間。疎開を終え、子どもたちが夜行汽車の中で見たのは、3月9日の真っ赤に染まった東京の空でした。子どもたちは、東京大空襲のさなかに帰ってきてしまったのです。翌日の空襲で亡くなった子もいました。「死ぬために帰ってきたようなものだった」と語る人もいるくらいです。
  • 第2次疎開が開始されたときは、空襲の被害も多くなってきたころでした。最初、「なんでうちの子を(縁のない)長野に疎開にやらなければならないのか」といっていた親も、そうこう言っていられなくなったのか、多くの子どもが参加しました。いきなり「あんたは(疎開に)行くんだ」と言われ、何をしに行くかもわからないまま行きましたね。
  • 疎開先の子どもたちとは、やはり生活環境が違いましたから、仲良くできたという子は少なかったですね。
  • 生活環境の違いや衛生環境の悪さから、体調を崩す子もいました。当時はなかなか病院に行ける環境ではありませんでしたから、病気になった子は先生が背負って数理離れた病院に連れて行きますが、亡くなってしまった子もいます。
  • 長野は雪の多いところですから、東京から来た子どもたちは雪が降ると喜びました。自分たちで竹を割って、鼻緒をつけて、スキーの板のようにしてよく遊んでいましたね。

ヒモジイ

  • 疎開を一言で表すと、「空腹」だと多くの人が言います。子どもたちは国民学校初等科3から6年生と年齢に幅がありましたから、提供される食事も年齢にあわせて量が決められていました。しかし、育ち盛りの子どもたちには当然足りません。そのうち下級生から強制的に「カンパ」させる上級生もいましたね。
  • 疎開する際、家族が多少食料などを持たせてくれることがあります。しかし、カズノコなどの海産物を持って疎開した子は、疎開先でそれを食べた記憶はないと言います。疎開先は海産物が入手しにくい山の中でしたから、村の人たちが確保してしまったのでしょう。
  • 疎開先では、食べ物は主にサツマイモなどのイモ類でした。提供される量はごくわずかで、子どもたちは常に空腹でした。何か食べられるものはないかと、歯磨き粉や味のついた胃薬などまで探して食べていましたね。男の子の中には、木に登ってハチの巣からハチノコをとって食べていた子も。もちろんハチに刺されてしまいますが、痛みより空腹の方が勝って、夢中で食べていました。
  • 疎開先の長野と言えば「おリンゴのくに」と当時言われていましたが、リンゴを食べた記憶がないと言う子もいました。学校単位で疎開していたので、場所ごとに違ったようです。また、「リンゴは食べなかったけれど、リンゴの皮を買って食べた記憶がある」と言う人もいます。
  • 親に手紙で、胃の薬を頼む子が多くいました。体調を崩したわけではなく、おやつとして食べたかったのですね。親が薬局に行ったとき、胃薬はどこも売り切れていたそうです。

サミシイ

  • 当時、疎開する子どもたちはみんな、最初は遠足気分でした。しかし、現地での生活は大変厳しいもので、3日 を過ぎるころには、みんな家を恋しがりました。夜、みんなで寝ていると、下級生が泣き、それを慰めていた上級生も泣き、どんどん広がって最後は泣き声の大合唱。心配した先生がかけつけても、なかなか泣き止むことができませんでした。
  • 疎開での生活に耐えかねて、疎開先を脱走しようとした子もいました。特に下級生にはつらかったのでしょう。長野の駅前で立ちすくんでいた子、「この線路とたどっていけば東京に帰れる」と線路を歩いていった子もいたようです。

カユイ

疎開先ではシラミが大量に発生し、子どもたちはそのかゆみに苦しみました。服のソデのしわを見ると、シラミがびっしりと。衣類を大きななべでゆでて消毒するなどで対処していましたね。また、冬はアンカの上に衣類を干して、這い出してきたシラミを火に放り込んだり、外に衣類を出して寒さでシラミを殺したりしていました。しだいに何匹つぶしたかを競ったり、大きいシラミを捕まえて虫相撲をしたりと子どもなりの遊びにつなげる子もいました。

「引率者の立場から」 磯野さん

20歳代で引率教師として長野県に疎開しました。当時を振り返ると、やはり食べ物には苦労しましたね。いろいろと工夫して食べ物を集めようとしていましたが、どこにお願いしてもなかなか食料を分けてもらえません。「(親御さんから)預かった子どもたちのために」、と思っていましたが、やはり親になりきることはできませんでした。

子どもの親が疎開先に面会に来ることもありました。手土産にイナゴを持ってきて、子どもたちが喜んで食べていたのを覚えています。

▼疎開している子どもの保護者から、引率の教師宛てに多くの手紙が届きました。その多くが、わが子を心配する声でした。しかし、中には親戚・知人が亡くなったという訃報や「お国のために立派になりなさい」という、時代を感じさせる内容も。

保護者から、引率の教師宛てに送られた手紙1保護者から、引率の教師宛てに送られた手紙2保護者から、引率の教師宛てに送られた手紙3保護者から、引率の教師宛てに送られた手紙4

 

足立の学童疎開を語る会の皆さんにお話を伺いました


木嶋孝行さん

堀川和夫さん

磯野重郎さん

相川謹之助さん

会田利雄さん

赤田直繁さん

片野栄吉さん

川井トヨ子さん

川澄巌さん

木村繁さん

田口冨美子さん

竹前忠雄さん

前沢正信さん

宮本昇さん
 

スペシャルゲストインタビュー「家族の絆(きずな)に支えられて生き抜いた」

海老名香葉子さん

海老名香葉子さん02私は、東京大空襲で両親、祖母、兄2人、弟を亡くしました。
当時、沼津(静岡県)に疎開していた私は、生き残った3番目の兄から家族の死を聞かされました。

「みんな死んじゃったんだ、ごめん、ごめん」と兄は泣きながら私に謝りました。避難した先ではぐれ、いくら探しても見つけることができなかったのだと。兄自身も、全身ぼろぼろで、焼け爛ただれて人相が変わるほどでした。今も、家族の遺体がどこへ行ってしまったのかはわかっていません。

海老名香葉子さん01

戦時中は、家族みんなが愛国精神に富んでいました。祖母が婦人会の副会長をしており、家のものをこぞって供出しました。すべてが「お国のために」で不満を持つことはありませんでしたが、まだ小さかった弟が不憫でしたね。「この子にアメ玉あげたら喜ぶだろうなぁ。つらい思いはしてほしくないなぁ」と子ども心に思っていたものです。

疎開したのは家族で私1人でした。女の子は私だけでしたから、家族が心配したのでしょう。親戚を頼りに沼津に行きました。疎開前日、兄たちが一升瓶に入ったお米を棒でついて白くしてくれて、祖母が「明日は白いご飯を食べて出発できるわ」と言ったのを覚えています。夜、母に呼ばれて、2人で膝をつき合わせて座りました。母はたんすからお守りがたくさん入った袋を出して、私の首にかけてくれました。そして、「かよこは強い子だから大丈夫よね、大丈夫よね」と私を抱きしめて泣きました。弟は自分のおもちゃ箱から、大事にしていたメンコを1つ持ってきて、私にくれました。たくさんのお守りと、母が縫ってくれた防災頭巾、弟のメンコを持って、私は疎開したのです。

家族が亡くなって、私は戦争孤児になりました。戦後、東京に戻りましたが、当時の生活は厳しいもので、祖母や母の大事にしていた着物をわずかな食料に換え、春になれば雑草を探して食べました。寝泊まりは自宅の焼け跡です。当時はそんな生活をする人たちが大勢いましたが、11歳だった私は、今日生きるのに精一杯で、本当に、毎日が生きていくための戦いでした。でも、さびしくなったら空を見て、家族を思い出して耐えました。夜空を見上げて、「父ちゃん、母ちゃん」って。あと、母の言葉。「いつも笑顔でいなさいね」って。それがお守りみたいになっていましたね。

平成17年、上野に私財とおこころざしの寄付で「慰霊碑・哀しみの東京大空襲」、「母子像・時忘れじの塔」を建立しました。上野は、東京大空襲で亡くなった人たちの遺体が大量に埋葬されていた地です。そして、毎年3月9日には、空襲犠牲者を慰霊する集いを行っています。参加者は年々増え、戦争を実際に体験した人だけでなく、若い人たちも多くなりました。私は、「こんなつらいことがあったのよ」と、戦争の話を語っていくことこそが平和の尊さを伝えることなのだと思います。普段当たり前の日常を感じられることが、幸せなのだと。それを、子や孫、若い世代の人に伝えていきたいですね。

<プロフィール>
海老名香葉子(えびなかよこ)
昭和8年東京生まれ。エッセイスト、絵本作家。国民学校5年生の時に東京大空襲で家族6人を失う。私財と寄付で台東区上野に「哀しみの東京大空襲」、「時忘れじの塔」を建立し、毎年3月9日に空襲犠牲者を慰霊する集いを行っている。

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