あだち広報テキスト版2022年(令和4年)8月10日第1885号6・7面

区制90周年記念企画
語り継ぐ あだちの戦争

戦争を体験した足立区在住の4人にお話を伺いました。
問い合わせ先=広報係 電話番号03-3880-5815


死と隣り合わせだった、あのころの千住
相川 謹之助(あいかわきんのすけ)さん(85歳)
千住で戦争を体験。足立区の歴史や文化財について調査・研究を行う「足立史談会」に所属している。

◆家に直撃した不発弾
警報は昼夜問わずに鳴っていました。昭和19年末から20年にかけてアメリカによる爆撃の回数が増えていったんです。家の近くに焼夷弾(しょういだん)が落ちて、防空壕(ごう)が揺れて、上にかぶせた土がずれることがありましたが、そのときはとても怖かったことを覚えています。
空襲で危うく死にかけたこともあります。当時私は、千住と縁故疎開(親類や知人を頼ってする疎開)先の草加市の家を行ったり来たりしていました。ある日、爆撃機が草加市の家に焼夷弾を落としたのです。家の屋根を突き破って私が寝ている2から3メートル先に落ち、土間の臼うすに跳ね返りました。幸い不発弾だったらしく、家族が急いで水をかけてことなきを得ましたが、一歩間違えれば死んでいたとこ
ろでした。そのときは庭にも焼夷弾の不発弾が4・5本刺さっていました。

◆記憶から消えない夜
空襲の中でも、足立区で被害が大きかったのが昭和20年4月13日の空襲です。私は自宅にいて、警報が鳴ったので防空壕に逃げ込んでいました。しばらくすると地区の班長さんがやってきて「ここは危ないから逃げろ!」と言うので、千住新橋に向かって逃げました。逃げている途中で「千寿国民学校(現在の東京藝術大学千住キャンパスの位置(千住1丁目25番1号)にあった)が燃えているから、千住新橋の方ではなく、ほかへ逃げた方がいい」と声をかけられたので、今度は現在のミリオン通りを隅田川の方に向かって逃げました。ミリオン通りで炎は上がっていませんでしたが、空を見上げると焼夷弾がどんどん降ってきていて、空が明るかった記憶があります。逃げている途中、現在の千住仲町公園の辺りに爆弾が落ちてすごい爆発音がしました。そのときは学校で習ったとおり、急いで伏せて耳と目をふさぎました。今でもそこを通る度に空襲の夜のことを思い出します。
(写真説明)
アメリカが使用していた爆撃機「B29」。東京に対する空襲は、100回以上に及んだ

◆効率よく燃やすための爆弾
焼夷弾の威力はすごかったです。水道管やトタン、ガス管は残りましたが、ほかは一切残りませんでした。相当な熱だったんだと思います。1発や2発の焼夷弾ではありませんでしたから。まさに焼け野原。この日の空襲で千住仲町のうち、旧日光街道より西側はほぼすべて焼失してしまいました。逃げて来た道を戻って自宅に着くと、家が残っていたので「焼けなくて良かった」と思いましたが、近づいて見ると家の後ろ側は焼け落ちていました。材料も何もないので、焼け跡からトタン板を
拾って応急処置し、住み続けましたね。
(写真説明)
筒の中に油脂が入っており、火災を起こすことに特化した焼夷弾。大きさは直径約8センチメートル、長さ約50センチメートル



夜が明けると、そこは焼け野原だった
長谷川 浩平(はせがわこうへい)さん(87歳)
千住で戦争を体験し、一時的に学童疎開にも行っていた。千住仲町で代々続く金物屋を営んでいる。

◆焼き尽くされた日常
防空壕の中でも大きなものが旧日光街道沿いの空き地にあり、通行人でも近所の方でも誰もが逃げ込める立派なものでした。私の家の防空壕は小さかったので、空襲警報があるとそこに逃げ込んでいました。警報の音は本当に嫌でしたね。寝ていても飛び起きましたから。警報が鳴ると昼も夜も関係ありません。防空壕に一直線でした。
当時の旧日光街道沿いには、商店がずらりと並んでいたんです。区内だけでなく近隣からも人々がやってきて千住の市場に野菜などを納め、そこで手に入れたお金で買い物をして帰っていくというのが日常の姿でした。その旧日光街道沿いの大部分の建物が焼かれてしまったのが、昭和20年4月13日の空襲です。
(写真説明)
昭和10年ごろの千住市場。人々で賑(にぎ)わっていたが、空襲により焼失してしまった

◆命からがら逃げた夜
4月13日の空襲の日、私は自宅にいました。夜の11時ごろだったと思いますが、警報が鳴り、焼夷弾が次々と落ちてきたんです。周りが明るくなるほどの炎でしたので「これは逃げた方がいい」ということになり、家族で逃げることにしました。祖父がリヤカーと自転車を繋(つな)ごうとするんですが、慌てているからなかなか繋がらなかったのを覚えています。やっと繋がったので母親が生まれたばかりの弟を抱いてリヤカーに乗り、祖父が自転車を引き、私が後ろから押して、現在の足立市場の方に向かいました。空は真っ赤で昼のように明るかったです。本当に怖かったですね。いつ焼夷弾が直撃してくるか分かりませんでしたから。防空頭巾をかぶってはいましたが、たいした足しにはならなかったと思います。

◆燃え殻にぶつけた感情
千住から知り合いがいる江北方面へ逃げるため、空襲の翌日に西新井橋へ向かいました。途中で千住仲町の自宅のそばを通りましたが、周りはすべて焼き尽くされていました。西新井橋の上に焼夷弾の燃え殻があったのを見つけたので、「こんちくしょう!」と蹴っ飛ばしてやりました。川に落ちた焼夷弾を見たときには、胸がすっきりする思いでした。
旧日光街道沿いの家や商店は燃えてしまいましたが、東側の奥にあった大きなお屋敷などは焼夷弾が落ちても延焼せず、今でも残っているところもあります。現在「仲町の家(現在、東京藝術大学と区などによるアートプロジェクトの拠点施設として活用されている)」として利用されている日本家屋も、入口の門は火をかぶって黒焦げになりましたが、焼失を逃れて今も残っています。
(写真説明)
「仲町の家」の門。木材の一部が炭化している


自分たちが国を守るという、使命感が強かった
鈴木 博子(すずきひろこ)さん(90歳)
国民学校に通っていた当時は神明地域に住んでおり、0歳の姪(めい)を背負って学校に通っていた。

◆真っ赤な夜
被害が大きかった昭和20年4月13日の空襲は鮮明に覚えています。当時の神明町の実家周辺では直接の被害をそれほど受けませんでしたが、空襲を受けた千住地域の空は一面が夕焼けのように真っ赤に染まっていました。このとき、B29が自宅近くに墜落したのですが、近所の皆が自分の家に落ちてくると思って、隣へ隣へと逃げていくんです。赤い火の玉がどんどん迫ってきて、最後は現在の第十三中学校の先辺りの畑に墜落しました。翌日に見に行ったら大きな穴が開いていて、油がいっぱいだったのを覚えています。その中に兵隊さんが落下傘で落ちたようだ、という話を聞きました。
(写真説明)
足立区に墜落したB29のプロペラ。大きさは幅約20センチメートル、長さ約155センチメートル

◆安堵(あんど)より不安の終戦
食料が当時は無かったので、道端の草をむしってきて、父に食べられる草を選んでもらっていました。それを貴重な1合のお米と一緒にお粥(かゆ)にして、4・5人で食べたことを覚えています。
食べ物が無い時代を過ごしましたが、辛(つら)いと思ったことはありません。戦争をしているので仕方がないという気持ちでした。戦争に勝てば食べられるようになると信じていましたし、まさか戦争に負けるとは思っていませんでした。天皇陛下からラジオでお話があると言われたときにも、戦争に負けたという話だとは思っていなかったのでショックでした。「これからどうなるんだろうか」「ちゃんと学校に行けるんだろうか」という不安がいっぱいで、戦争が終わって良かったという気持ちはありませんでした。

◆戦時中の女性たち
不自由な生活の中でも、当時の女性は朗らかな人が多かったという印象です。井戸端会議のように皆が集まると「今日は食べるものが何もないので食事は無しにする」といった話を笑ってしていました。
竹槍(たけやり)を持った訓練や焼夷弾が落ちてきたときに消火するためのバケツリレー訓練なども、町の婦人会会長の号令の下で度々行われました。今考えると、竹槍で敵をやっつけたり、バケツリレーで焼夷弾を消火したりするのは無理だった
と思います。それでも、当時の女性たちは、男性たちが留守の間、自分たちが国を守るという使命感にあふれていました。
(写真説明)
当時行われていた消火訓練の様子


寂しく、ひもじく、辛かった疎開生活
木嶋 孝行(きじまたかゆき)さん(87歳)
長野県への学童疎開を体験。「足立の学童疎開を語る会」の会長として当時の体験を伝える活動を行っている。

◆疎開を決めた西新井の空襲
長野県への疎開を決めたきっかけは、昭和20年の2月、西新井駅辺りであった空襲です。駅の方の様子を家の近くの電信柱に上って見ようとしましたが、その日は雪が降っていてよく見えませんでした。翌日に駅の方を見に行くと、家があったところが焼け野原になっていて、親子が黒焦げになって亡くなっているような惨状でした。そのことを家に帰ってから父親に報告すると、「すぐに学童疎開に行け」と言われ、昭和20年4月から疎開したんです。長野県に学童疎開をしたのは、足立区の26校の国民学校に通っていた4から6年生。約7,000人がお寺や旅館に分散して疎開しました。
(写真説明)
疎開先での食事の様子

◆厳しい疎開の生活
疎開した日は、西新井国民学校から北千住駅まで歩いて行きました。電車に乗って長野県へ向かいましたが、電車内では皆ワイワイ騒いでいて、遠足に行くような気持ちでした。ただ、疎開先での生活はとても大変でした。まずは食料ですね。朝ごはんは大豆とお米が混ざったご飯と味噌(みそ)汁、お新香とそれだけです。先生が「40回くらい噛か んでから飲み込め」と言うんです。ご飯ではなく、芋を半分に切ったようなものがご飯代わりに出たこともありました。
それからシラミ。疎開先ではお風呂に入るのが月に1回あるかどうか。だからシラミが出るんです。とにかくかゆかったですね。僕が着ていた寝巻きの縫い目にシラミが大量に付いていたことがありました。そのシラミが私の体を刺すんです。音が聞こえてくるくらい。すぐに寝巻きを脱いで押し入れに入れたのを覚えています。
(写真説明)
疎開先で撮影した集合写真
(写真説明)
疎開先の食事の再現

◆終戦、そして東京へ
終戦の天皇陛下の玉音放送を先生、生徒の皆で聞きました。それから、「日本は戦争に負けた。これからはお前たちが将来日本を良くして、豊かにしていくんだ」と疎開を引率していた先生が言うんです。その話を聞いて、一人の男の子が泣いたんです。それに続くように皆が泣いて。戦争で負けたという悔しさやこれからの不安、色んな気持ちがあったんだと思います。
戦争が終わったと知ったときは、子ども心ながらほっとしましたね。東京に帰る日は決まっていませんでしたが、「これでようやく家に帰れる」と思ったのを覚えています。それほど疎開先の生活は辛いものでした。


広報番組
「1941から1945  ―戦後77年― あだちの記憶を語り継ぐ」をJ:COM(ジェイコム)チャンネル足立(地上11ch(チャンネル))で放送
上記4人と、表紙インタビューに登場いただいた吉岡(よしおか)さんが出演。出兵や空襲、疎開を体験した「最後の世代」が、あの日の記憶を語ります。
■放送日時=8月6日〜15日、午後0時30分~1時
「動画de(デ)あだち」でも公開中。

協働展「足立の学童疎開」
■期間=開催中、8月28日まで ※新型コロナウイルス感染症の状況により、期間の変更または中止する場合があります。■内容=「足立の学童疎開を語る会」と協働で、学童疎開当時の資料や体験談を紹介 ※入館料が必要(8月13日(土曜)・20 日(土曜)を除く)■申し込み=不要 ※当日直接会場へ■場所・問い合わせ先=(足立区)郷土博物館  電話番号03-3620-9393

戦没者を追悼し平和を祈念する黙とうを
8月15日は「戦没者を追悼し平和を祈念する日」です。当日、日本武道館で行われる全国戦没者追悼式では、正午から1分間の黙とうを行います。皆様も黙とうにご協力ください。
■問い合わせ先=総務課 人権推進係  電話番号03-3880-5497