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千住宿問屋場及び貫目改所跡
(せんじゅじゅくとんやばおよびかんめあらためじょあと)

■足立区登録記念物(史跡)〈昭和59年11月14日登録〉
■千住1-4 【地図】(外部サイトへリンク)
■公開
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問屋場・貫目改所跡地
問屋場・貫目改所跡地(東京芸術センター前の広場)

 

 

 

 

 

 

 

日光街道の西側にあたるこの場所は、江戸時代に千住宿の問屋場と貫目改所が置かれていました。宿場は、幕府の許可を得た旅行者に対して、人足(にんそく)と馬を提供することを義務づけられていました。千住宿は、50人、50疋(ぴき)で、元禄8年(1695)に問屋場が設けられ、ここで人馬の手配をしました。街道の向かい側には、馬寄場がありました。
寛保3年(1743)に貫目改所が設けられ、荷物の重量検査のための秤(はかり)が備えられました。馬に積める荷物には制限があり、40貫目(150kg)を積むと本馬、20貫目あるいは人が乗って5貫目の手荷物を積んだものを軽尻と呼び、次の草加宿までの運賃が定められていました。貫目改所は、ここを出ると宇都宮宿までないため、重い荷物を制限内と認めてもらえるよう、賄賂が飛び交ったといいます。江戸幕府は、江戸から全国各地への交通網を整備しましたが、なかでも五街道は重要で、道中奉行が直接管理していました。江戸日本橋を出て最初の宿場である、東海道品川宿、甲州道中内藤新宿、中山道板橋宿、日光・奥州道中千住宿は、江戸四宿(えどししゅく)と呼ばれています。地方と江戸の、文化や産品の結節点であると同時に、江戸人の遊興の地でもありました。旅に出る人を見送るのも四宿まででした。千住宿は、日本橋から2里8丁(8.7km)しかないため、江戸時代の人にとっては、気楽に出かけられる距離だったのでしょう。
この場所は、問屋場・貫目改所跡として知られていましたが、平成12年(2000)、足立区教育委員会が発掘調査をしたところ、現在より1m程低い江戸時代の遺構面から、等間隔で並ぶ杭穴と礎石が見つかりました。分析の結果、この遺構は2棟の建物からなり、それぞれ問屋場跡と貫目改所跡であると推定されました。また、南東の小石を厚く敷いた部分は、荷さばき場跡と考えられています。

 

 

 

 

 

 

 

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