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更新日:2015年2月5日

~足立大好きインタビュー~演歌歌手 渥美二郎さん

足立区千住に生まれ、千住で流しとして活躍した後、歌謡界にデビュー、「夢追い酒」で280万枚というヒットを生んだ渥美二郎さん。昨年末には、千住から旅立った芭蕉の「奥の細道」にちなみ、新曲「奥の細道」をリリース。そんな渥美さんの、千住への熱い思いを聞いた。

たくさんの演歌師のなかで育った

jirimini1千住はぼくの育ての親なんですよ。

父親が流しの親方やってましたでしょ。日ノ出町の槍かけ松のあったあたり、うちが寮になってまして、物心ついたころには30人から40人、演歌師がいて、一緒に寝起きしていましたから、笑い話じゃないですけど、どの人がお父さんだかわからないくらいで(笑)。自然とギター覚えて、16のとき見よう見まねでフラッと盛り場出ちゃって、デビューするまで8年、千住のまちを流していました。北島三郎さんのように歌手になろうと思って出たわけじゃないんです。ぼくは親のあとを継ぐためにこの道に入ったんです。

千住のお客さんはガラがいいですからね(笑)。酔ってますから、下手だと「出直して来い!」と怒鳴られて、バッサリやられます。こっちは悔しいから「よーし」と、お客さんをうならせるために練習する。意地でも覚えてリクエストに応えられるようにね。1対1の、お客さんとの真剣勝負なんです。お客さんたちに育てられ、お店のママさんやマスターに面倒を、見てもらいました。千住はぼくの育てのまちなんです。

面白いこともたくさんありました。

たまに座敷に上がってくれっていうお客さんがいてね。みんな座って飲んでるんで、立って歌うと上からになっちゃうでしょ。だから、「じゃあ、座らせてもらいます」って、ギター抱えて正座して、1時間くらいやったでしょうか。「ありがとう。いいよ」って言われるんですけど、立てないんです。しびれちゃって。「いいよ、もういいよ」ってもう一度言われて、「すみません」って立とうとして、バーンって倒れちゃって。そしたら「エライ!」って褒められて、チップが増えた(笑)。まだ10代でしょ。足が感覚なくなるまで正座してたことを、「気に入った!」って言われて、3曲200円の時代にチップだって5000円もらってね。当時の稼ぎはぼくら、1日だいたい5-6000円でしたから大変なお金でしたね。

たまに出かけるときに靴下に穴が開いてるとき、あるじゃないですか。あーっ、開いている、でもまあいいや、って。めったに座敷ってないですからね。ま、いいやいいやって出かけるんですけど、そういうときに限って座敷があるんですね(笑)。あっと思って穴を後ろに引っ張って上がったんですね。でも歌に夢中になっちゃって忘れちゃって。そしたら横にいたホステスさんが、「としちゃん※1、靴下、新しいの買ってもらいなさいよー」って(笑)。若いときだから、恥ずかしくて恥ずかしくて真っ赤になっちゃって(笑)。そのときも靴下代って余分にチップもらいましたけどね。流しでは若い方でしたからね。だいたい30過ぎの流しが多くて、40代、50代もいますでしょ。16,7だから、かわいがられましたよ。そんなことがいっぱいありました。

※1:当時は本名の渥美敏夫で流していた

仕事はタイミング

jiro7北千住駅西口すぐ、ときわ通り(通称:飲み横)

ときわ通りも、随分雰囲気が変わりましたね。ぼくが16のときは昭和42-3年ですよね。その頃と比べると、縄のれんがなくなっちゃいましたね。ぼくらが流した頃には、ときわ通りを入ってすぐのところ、永見のちょっと先を右に入ったところに、小便(しょんべん)横丁って言って、ハモニカみたいにちっちゃな店が並んでる通りがあったんです。昔、火事で焼けちゃったんですけどね。そこだけで、何十軒も飲み屋があって、その先、ときわ通りの両側にもたくさん、小さな店がありましたからね。

中が見えない自動ドアになってから雰囲気が変わって行きましたね。こんにちは、って入っていくと、まだお客さんがビールも飲んでなくて、おしぼりをもらってるようなときに入っちゃったりね。タイミングがつかめなくなって。

ぼくらが流し始めたころは縄のれんがほとんどで、お客さんの様子が全部見えたんですよ。だから、「ああ、そろそろかな」って思って、「一曲行きますか」って声かけると、「おっ、待ってたよ」ってね。そのタイミングが大事でね。

自動ドアになってから、そのタイミングがつかめないし、何かやりづらくなったなあ、って思ってるうちにカラオケの時代が来て、入っていくとお客さんがカラオケで歌ってるって状況になって、一曲いかがですか、って言いづらくなって。それがぼくがやめるちょっと前ですかね。

何度も選挙と間違えられて

jiromini2

千住の店のお馴染みさんのひとりが、遠藤実先生の友だちだったんですね。その人に「渥美さん、歌、真剣にやってみたらどうなの」って言われて、「いやあ、ぼくは歌手になろうと思ってないんで」って言ったら、「でも一度、本格的に歌の勉強したら、仲間にも教えられるじゃないか」って言われ、それもそうかなと思って、昼間に中野の遠藤実先生の事務所のレッスンに通うようになったんですね。遠藤実先生はめったに事務所に来られないんだけど、あるとき来られてぼくの声を聴いて、「君、面白い声してるね」って呼ばれたんですね。

それから間もなく電話があって、ワーナーパイオニアで、千葉真一さん主演の映画の主題歌「空手道」に、君の声がぴったりだからやってみないか、って言われて歌わせてもらったんです。そのときは、そんなに簡単にレコード歌手になるのかと思ったけれど、演歌師仲間とぞろぞろと映画館に観に行ったら、画面に「主題歌 渥美健(当時の芸名)」ってどーんと出て、これは大変なことになるぞってサインの練習したりしてね。余計な心配しましたけど(笑)、全然、売れませんでした。何だ、大変な世界だなあって。

それでまた、流しに戻っていたんですが、遠藤実先生も、一度声かけた以上、ってのがあったし、ぼくも何だか中途半端でね。その後、ソニーレコードからデビューの話があったときには、「望むところです」って、1曲出し、2曲出し、でも売れないんですね。そして3曲目、これでダメだったら自分には才能がないんだから、やめようと思って、背水の陣って気持ちで、何でもやったんです。これが「夢追い酒」です。

真っ赤に刺繍したジャンパーを着て、新幹線でも何でも、それで歩くわけです。歌詞カードをポケットに入れて、歩きながら配るんです。まちを歩いてると、八百屋さんから魚屋さんまで、どこへでも入っていって配るもんだから、一緒にキャンペーンをしているスタッフが恥ずかしくて、ぼくから離れて歩くんですよ(笑)。

売れないわけですから、テレビもラジオも出られないので、とにかく時間だけはあるんですね。待っててもしょうがないから、羽田空港に行ってね。何も用がないのに、スピーカーから音を流して、ぐるぐるぐるぐる回るんです。アメ横にも行きました。人が多いですからね。お巡りさんに、「君、許可証持ってるのか」ってとめられてね。もう、何度も選挙と間違えられましたよ。わかった、わかった、一票入れてあげるからって言われて(笑)。あれは、もう、最後と思ったから何でもできたのかもしれませんね。

ぼくはどちらかというとシャイなほうで、人前でしゃべったりするのも苦手でしたし、でも、もう最後だし、これで売れなければ流しに戻ろう、って気持ちでした。でも、下町気質っていうんでしょうか、思い込んだらとことんやるっていうところはあったんですね。

そのうレコードから紅白まで

jiro3miniレコード店の前では、みかん箱の上で歌うんです。千住の、今100円ショップになってる、そのうレコード(千住3丁目)でも何度もやりました。千住は、自分が行っている店だけで100軒以上あるでしょ。ママさんだけでもかなりの数が集まるし、演歌師仲間も何十人もいるから、賑やかでしたが、千住の外へ行ったら、聴いてる人なんて5-6人というのがざらでした。1年間、まったく売れなかったんです。

そしてあるとき、京都のレコード店に行ったら、目の前に大勢の人があふれているんです。マネージャーと、「また何か事故でもあったのかな」ってしゃべりながら歩いていったら、レコード店の人が走ってきて、「渥美さん、裏へ回って入ってください」って言うんです。「どうしたんですか」って聞くと、「いや、皆さん、渥美さんを待ってるんですよ」って言うんで、「えーっ」って、びっくりして。もううれしくて、裏どころじゃなくて、お客さんの中、かきわけて「ぼくが渥美二郎です」って言って入っていったんです(笑)。当時はまだ有線とかラジオでヒットが始まったばかりで、顔が売れていなかったので、「ホントかよー」とか言われながらね(笑)。売れ始めたときの切り替わりは、1ヶ月くらいで、すごかった。1日で5万枚、6万枚、売れました。何千万の宣伝費をかけたからといって、やろうとしてできることではないですからね。世相と合ったんですね。「あなたなぜなぜ、わたしを捨てた」って、カラオケで歌いやすいフレーズと、今どき珍しい下町の千住の、演歌師出身の歌手っていうのが受けたんでしょうね。昭和53年2月の発売で、その年は売れず、翌年、昭和54年の紅白に出て、実質2年歌ってましたね。

TBSのザ・ベストテンにも出たんです。当時、ポップスの時代で、演歌でベストテンに初めて入ったのが、ぼくの「夢追い酒」だった。郷ひろみや百恵ちゃん相手に、年間3位まで行きました。それまでベストテンを観るのは若い人ばかりだったが、演歌が入ったことで年配の方も観るようになり視聴率が上がったって、当時の番組のプロデューサーが喜んでくれて、大接待してくれましたよ(笑)。

ベストテンでは、念願の「千住から生中継」もやりましたね。ときわ通りで、流しを50人くらい後ろに従えて歩きながら歌いました。あのときは、千住の人が喜んでくれたんじゃないかなあ。応援してくれたまちの人に少しは恩返しできたんじゃないかなあって、そういう意味ですごくうれしかったですねえ。

325年目の旅立ち

jiro5ぼくは文学はあまり得意ではないですが、「奥の細道」だけは、芭蕉さんが千住から出発したというので、親しみを感じて読んだんですね。そういう地元意識ってありますよね。特にぼくら下町の人間はありますね。地方で握手会したときに、「足立区なんです」なんて言われると、「おーっ」って、うれしくなっちゃってね。

ですから、「奥の細道」は、デビューしたときから、絶対、歌いたいと思ってきたんです。今から25年前、ちょうど芭蕉さんが奥の細道に旅立って300年だったんですね。ここが節目だから、今、歌わなきゃと思ったときに、ぼくは胃がんになっちゃったんですよ。それも末期のスキルス性胃がんで、全摘でした。

不思議ですよ。そのときは、これで終わりかなと思いましたが、一回も移転もせず、25年、生きてるんです。先生にも、「渥美さん、転移してもぜんぜんおかしくない状態だったのに、がんばりましたね。歌がすごく良かったんですね」って言われました。「もう少し歌え、ってことなんですかね」なんて冗談言ってね。

それで今年(2014年)が、旅立ちから325年で、年末ぎりぎりでしたが新曲「奥の細道」をつくりました。すごくおこがましいんですけれど、何か共通というか、親しみを感じるんです。芭蕉さんは、俳句を残すために命がけの旅をしたわけですよね。あの時代に、半年近く、歩いての旅。当時、奥州なんて「未開の土地」と芭蕉さんも書いてますけど、本当に、生きて帰ってこられるかどうかわからなかったでしょうね。だから、一つひとつの句に命を吹き込んでつくったのだと思います。命を吹き込んでつくった句は、つくり手がいなくなっても残っていくもの。300年以上経った今でも、まったく色あせることなく読まれていますよね。芭蕉さんは俳諧師、ぼくは演歌師。命吹き込んで残す気持ちは、ああ共通だと感動するところがあるんです。

「カチューシャ」は日本初の流行歌でしたが、これも100年経ちました。もう、クラシックの仲間入りかなと思います。「夢追い酒」は今、30年ですが、100年歌い継がれるかなとか、そういうロマンがあります。そういう同じ、「歌を残す」っていう、共通の部分があるんじゃないかなと思いますね。

「奥の細道」の俳句の中で、特に好きなのが「夏草や…」の句です。あの五七五の中に、藤原三代の歴史と義経の、2時間の映画ができるくらいの物語が入ってますよね。人のはかなさですよねそのはかなさに芭蕉は涙したと書いてありました。そこのところをどうしても生かしたいと思い、「奥の細道」の2番に取り入れました。

ぼくの「奥の細道」には、歌だけでなく、どうしても句を入れたかったんですね。それで、歌として合う句を探したのですが、それがぼくの一番好きな句でした。歌として合うように選んだ3句が、メロディにぴたっとはまったんです。本当に何かの力を借りてできたようで。歌をつくったっていうより、芭蕉さんの言葉をそのまま現代語に置き換えたというか。自分としては、歌手人生、これで悔いはない、って思いです。

作詞作曲の「千寿二郎」は、ぼくのペンネームです。自分でつくるってのが照れくさくてね(笑)。ぼくは「千寿第四小学校」の出身なので、そこから「千寿」を、無断で(笑)借用しました。

このステージが最後という思いで

ぼくは1回、命をあきらめたんです。末期だと言われたし、スキルス性でしょ。もうダメだなって思った。

今は、何も痛みがありません。寝るときも痛みを感じない。それだけで、ありがたいって思います。何もないこと、健康でいることが当たり前じゃない、って知りましたので。それまでは、健康のことなんて、あんまり考えないで生きてきました。でも、37歳でしたから、37でおしまいって、そんな人生あるのかと、初めて、もうちょっと生きたいなあって思いました。

まず、5年が最初のハードルだって言われて、1年、2年、5年、そして10年生きて、やっと意識しなくなったんですね、がんのことを。10年までは、ちょっとした腕の筋肉痛でも、あ、ここに来たか…ってすーっと青くなりました。人間って弱いもんですよ。男でも弱いですよ。何かあると、どきっとします。20年経って、やっとですね。どこか痛くても、がんを意識しなくなったのは。

そういうことがありましたので、以前はステージで、何千人を前にしても普通に歌ってましたけど、手術してからはそれが普通のことじゃないと知ったわけです。お客さんの前で歌って、ざーっと拍手もらうと、感動します。喜びというのが何十倍にも感じられるようになりました。今となっては、ちょっと変な言い方ですが、ああいう痛い思いをして良かったと思います。

そして、1回々々、これが最後となっても悔いがないように歌っていかなきゃと常に思っています。芭蕉さんも、弟子に「辞世の句を」と言われて「日々日常が辞世だ」と言ってますよね。句を詠むときはいつも、辞世の句だと思って詠んでいたんですね。それでも辞世の句はあるんですけれどね。

ステージはなおさらです。今日のこのステージが最後だという思いで歌わないと、今日は調子が悪いけど来週のステージでがんばろうなんてことだと、そのとき来てくださったお客さんに失礼ですからね。常にベストコンディションに持っていかないといけない。それが自然と私の健康につながっているみたいですね。

先生に言われたんですが、歌うことで2ついいことがあるそうです。人間は、ある年齢になると、毎日、がん細胞を何個か作り出しているらしいんです。それを、自分の免疫力で消滅させているそうです。歌うことで免疫力をあげる2つのことがある。

1つは腹式呼吸だそうです。ヨガのような呼吸で、血流もすごくよくなるそうです。

そしてもうひとつが感動だそうです。何かに感動したり、うれしい、と思ったりすること、これが健康にすごくいいんだそうです。そういうときは、免疫力が高くなるんだそうです。

ぼくは、ステージで歌うときには自然に腹式呼吸やってますでしょ。それで、お客さんに拍手をもらったときの喜びは、術前と術後では10倍違う。わあ、ありがたいなあ、って気持ちがすごく良かったんですね。やっぱり歌で助けられたんですね。

もうひとつ、助けられたのは、胃がん発見のとき。胃がちょっとむかむかするっていう、普通だったら病院に行かないくらいの症状だったんです。でも11月に毎年やっていた、新宿コマ劇場での1ヶ月公演を控えていましたので、昼夜二回の公演を1ヶ月やるにはパーフェクトな体調でなくては絶対ダメなんですね。それでちょっと変だなっていうのが9月だった。11月に胃炎なんか起こしちゃいけないからと思って病院に行ったんです。だから、コマがなけりゃ、今、ぼくはいないんです。それも、歌に助けられてますね。

これも「縁」なんですね。「奥の細道」は平成元年に歌おうと思った歌でしょ。今考えてみると37歳ですから、歌わなくて良かったんですよ。37歳で、この歌は歌えないんです。歌うことは歌えますけど、その詩の深みとか味とかは把握できてませんからね。今なら、芭蕉さんより年上ですからね(笑)。

11県からヒットをつくる

jiro4miniこれから全国キャンペーンに行きますが、歌手人生晩年の勝負をかけて、1年とか2年でなく、これを歌謡史に残すために、時間をかけてじっくりやりたいと思っています。まず、芭蕉さんが「奥の細道」で句を歌を残した11県はじっくり回って、半年に一度くらいは通って、その県の皆さまには歌っていただければと思います。11県の放送局の方も、「奥の細道」には造詣が深いので、親しみを感じてくれると思います。

この前、福島の二本松へ行って、「聴いてください、奥の細道」って言ったら、「おーっ」って反応が返って来ました。芭蕉さんが立ち寄った、謡曲で有名な黒塚が二本松にあるんです。ぼくがデビューして38年、新曲のキャンペーンで、タイトルを言ってこれだけのリアクションがあったのは初めてなんです。

それから今、スタッフが、「奥の細道」って屋号のお店とか、全部調べているんです。もし歌を気に入ってもらえたら、そこにポスターを貼っていただきたい。とにかく、「奥の細道」が好きな方から地道に広めていってもらいたい。逆に、歴史を詳しく知らない人も、歌謡曲から「奥の細道」に興味を持って、旅立ちの地は千住なんだ、足立区なんだと知られるようになれば、もっと面白んじゃないかな。そう思って、がんばっています。

<談2014年12月10日>

あつみ・じろう

10代のころから地元・千住で流しとして活躍。その後、演歌歌手として歌謡界にデビュー。「夢追い酒」(1978年)は280万枚のヒット曲となる。2014年12月、作詞作曲も手がけた念願の新曲「奥の細道」を発表。B面には「千住ブルース」。

著名人が語る!足立大好きインタビュー

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