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公開日:2018年12月18日 更新日:2018年12月18日

寺子屋から小学校へ

意外と難しいことをまで学んでいます


家塾で使われた教科書(庭訓往来)

 

江戸時代には農民・町人など庶民の初等教育のために寺子屋が開かれました。寺子屋とは、もともと寺院が子どもたちの教育を行ったことからできた言葉です。江戸時代には寺院から離れ、学問を修めた者が開いた家塾がその役割を果たすようになりました。

一般に広く知られる「寺子屋」ですが、おもに上方で用いられた言葉で、江戸では筆学所などよばれました。

足立区内で初めて確認できる塾は、島根村の医者吉田順庵の塾です(享保6(1721)年『徳川実紀』)。

江戸時代後期になると家塾が増加していき、明治16年(1883年)までに区内42か村のおよそ6割以上の村に確認できます。普及した要因として、江戸時代には武士が村や町を支配するにあたって大量に文書が作成・利用されたこと、経済活動が盛んになると庶民も商取引や貸借などの上で文書の必要性が高まったことがあげられます。

区内には塾の弟子が師匠の徳を偲び、たたえて建てた追悼碑(筆子塚)が残されています。

明治5(1872)年の学制頒布を機に公立小学校の設立準備が進められ、区内では明治7(1874)年1月に公立小学新井学校(現西新井一丁目26番付近)が設立され、同年6月にはその分校11校ができました。当初は、独立した校舎ではなく、村や町の寺院や個人宅が利用されました。また、江戸時代以来の家塾の師匠・生徒がそのまま公立小学校に移ることもありました。


正木櫟蔭事績碑

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