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公開日:2018年12月18日 更新日:2018年12月18日

新田開発


大谷田新田に出された開発定書

 

 

戦国時代までの文献に出てくる地名はおおむね足立区西部に集まっていることから、西部の方から開発が進められたことを示しています。

 

江戸時代になると西部の開発がさらに進められるとともに、東部に人々が入植して新田開発が行われました。近くの村々の出身者が入植した例もありますが、戦国大名の元家臣や他地域出身者が開発した事例が多く見られます。幕府も新田開発を奨励するために、年貢諸役(ねんぐしょやく)を免除するので出身地がはっきりしていて領主と問題を起こしていない人を集めて新田開発をするようにと記した開発定書(かいはつさだめがき)を出しました。これによって、足立区域の42か村のうちおよそ半数にあたる20か村の新田が成立しました。

新田開発が進むと検地(けんち)が実施され、田畑一筆ごとに面積、等級、耕作者などを調べた検地帳(土地台帳)が作成されました。当時の農村の石高、田畑の割合、耕作者が記され、この帳簿に基づいて年貢やさまざまな役が課されました。


武蔵国足立郡千住弐丁目検地水帳

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