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公開日:2018年12月18日 更新日:2018年12月18日
幕府は寛永元(1624)年に日光山造営法度(にっこうさんぞうえいはっと)を出して日光と江戸を結ぶ日光道中の整備を始めました。日光道中は幕府が管理する五街道(ごかいどう)の一つで千住から鉢石(はついし)まで23の宿場がありました。千住宿は寛永2(1625)年に建設され、街道沿いに短冊形の地割りを行ない、隅田宿(すだしゅく、現墨田区墨田付近)をはじめ周辺の家々を集めました。
当初の宿場は千住一から五丁目でしたが、交通量増大により万治元(1658)年に掃部宿(かもんじゅく)・河原町(かわらちょう)・橋戸町(はしどちょう)が、万治3年に千住大橋南側の小塚原町(こづかはらまち)・中村町(なかむらまち)が宿場に加えられました。元禄9(1696)年には不足する人馬を周辺の村々から集める助郷制(すけごうせい)が定められました。
宿場は大名や日光門主など領主の公用通行のために、次の宿場までの荷物の輸送、本陣などの宿泊施設の設置、書状の伝達の機能を果たしました。千住宿は宿場であるとともに流通の町として賑わいました。橋戸河岸には荒川や綾瀬川を利用する船が発着し、米穀や野菜、陶器などさまざまな物資が流通しました。また、千住掃部宿市場は享保20(1735)年に御用市場となり、米穀・前栽(せんざい)・川魚(かわうお)などの問屋が軒を連ねていました。
千住宿模型
助郷札(助郷人足に渡された駄賃の支払い札)
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