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公開日:2018年12月18日 更新日:2021年8月25日
森鴎外が書いた記念碑(千住宮元町にあったころの様子)
森林太郎(鴎外、文久2(1862)年から大正11(1922)年)は近代の文豪として知られているほか、足立区域では大正記念道碑の撰文でも知られています。
明治12(1879)年に父静男が南足立郡医となり千住に転居して、後に橘井堂医院(きっせいどういいん)を開業しました。この頃、林太郎は東大在学中で下宿先にいましたが、大学を卒業した明治14(1881)年には下宿を引き払って千住に住み、医師として父とともに医療活動に従事しました。この頃の様子は小説『カズイスチカ』に描写されています。その後、三宅坂の東京陸軍病院に勤めることになり、千住から人力車で通勤しました。明治17(1884)年にドイツへ留学。明治21(1888)年に帰国すると千住の実家に戻りました。翌年林太郎は結婚して根岸に移り、両親も明治26(1893)年に千駄木に移りました。
「鴎外」という号は、現隅田川の白髭橋付近にあった「鴎の渡しの外」(かもめのわたしのそと)という意味で、林太郎が住んでいた千住を意味しています。
橘井堂医院跡(現 千住ザ・タワー付近・千住1-30-3)に建てられた千住の鴎外碑
新しくつくられた原稿紙型の解説板
*「大正記念道碑」は千住宮元町29-1に建立されていましたが、平成26年4月27日、千住中居町公園(千住中居町24-7)に移設されました。
*「千住の鴎外碑」はもとは都税事務所の敷地角に建てられていましたが、周辺の再開発による集合住宅の建設により、令和2年12月4日に現在の場所に設置されました。
*鴎の字は、「メ」ではなく「品」ですが環境依存文字であるため「鴎」を使用しています。
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