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公開日:2019年5月17日 更新日:2023年10月16日
古式須恵器3点(左:樽型ハソウ、中央:坏、右:高坏)
古式須恵器は、朝鮮半島の陶質土器の影響が強く残り、異質な器形(きけい)に装飾を多く加え、ていねな調整を特徴とします。
写真に見える高坏(たかつき)やハソウには、櫛状の工具によって、波状の模様を描いています。また、口縁(こうえん)をめぐる浮き出た線もはっきりとしていて、ていねいにつくられたことがよくわかります。
伊興遺跡公園地点から多数の古式須恵器が出土しています。伊興遺跡出土の古式須恵器は、5世紀後半に作られたものと位置づけされています。出土状態から判断して、ほとんどが祭祀(さいし)に関連すると思われますが、使用された跡もないことから、祭祀が終わると同時に捨てられたことも想像されます。
足立区で出土した子持勾玉
子持勾玉は、勾玉から勾玉が生まれ出る様子を示した10cm前後の巨大な勾玉で、極めて呪術性(じゅじゅつせい)が高い勾玉とされます。日本全国で500あまりの出土例がありますが、関東地方以北の出土例は極めて稀です。
東京都では、現在まで5例の出土例が知られているのみで、この5例のうち、4例が伊興遺跡や法華寺境内遺跡で出土されています。
子持勾玉は、祭祀の中で用いられていたと考えられていて、子持勾玉を用いた祭祀が毛長川流域で行われていたと考えられます。
古墳時代の舟の部材
伊興遺跡で発見された船底は井戸枠として、再利用され、井戸底から古墳時代中期の遺物が出土しています。
復元すると、全長約8mの船になると考えられています。
弥生時代になると、船底を丸木船で作り、板を継ぎ足して舷側(げんそく)を作った準構造船と呼ばれる木造船が出現します。
舷側の板を高く組み合わせることによって、船の大型化が可能なりました。
復元された大きさや、弥生時代には準構造船が作られていた背景から考ると、この船底が準構造船の部材であった可能性もあります。
漁撈(ぎょろう)以外の用途に使用された可能性が極めて高く、4から5世紀に活躍した交易船と考えられます。
舟形木製品(復元レプリカ)
ミニチュアサイズの舟形木製品が、古墳時代に毛長川の河岸であった地点で出土しています。
この舟形木製品は、船底に棒を通し、地面に突き立てた祭祀具(さいしぐ)の一種だと考えられます。
毛長川の河岸に住んでいた伊興遺跡の人々は、舟による交易や漁の安全を祈る祭祀を行っていたと考えられます。
琥珀・ガラス玉・管玉・勾玉・石製模造品など
写真にみられる玉類や石製品は、伊興遺跡の調査でたくさん出土しました。装飾品や祭祀(さいし)に用いる垂飾品として作られましたので、糸を通すために孔(あな)があいています。
写真中央にあるのは、琥珀(こはく)とガラス玉です。琥珀は小破片ですが、当時の物資の流通を考える上で重要です。千葉県銚子市が近い産地ですが、ここから運ばれたのかもしれません。琥珀は現在も珍重されますが、当時ガラスも希少なため、たいへん貴重であったと思われます。
そのまわりの巴(ともえ)形に配置している玉を臼玉(うすだま)といいます。臼玉の大きいものは平玉(ひらだま)といいます。
次に丸玉に移り、石製・土製の両方があります。丸玉の近くの細長い玉類が管玉で、逆「C」の形をしている玉類が勾玉です。管玉・勾玉は、碧玉(へきぎょく)や蛇紋岩(じゃもんがん)などのかたい石材で作られ、加工が難しく、貴重品でした。
勾玉のとなりから、石製模造品になります。剣・鏡を模した石製品が並びますが、端の3点はなにを模したのかわかりません。剣はそれぞれ基部(きぶ)と先端(せんたん)が破損していますから、わかりにくいかもしれません。鏡は2つの孔があき、円形もしくは楕円形です。他には、勾玉の模造品も出土しています。
『古事記』、『日本書紀』には榊(さかき)の枝に勾玉・鏡・剣をつるして祭祀が行われた記載があります。いわゆる三種の神器ですが、伊興遺跡で祭祀が盛んに行われた頃、ただ一回限りの使用で捨てられたらしく、本物は使用せずに、これらの模造品で代用したことが想定されています。
写真の上の大きな石製品も玉に似ていますが、玉ではなく紡錘車(ぼうすいしゃ)といいます。糸を紡ぐ時に使用しました。
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